桜まち 




  ―――― 桜 ――――



「よく我慢しましたねぇ」

朝から櫂君に昨日のことを話すと、やけに感心されてしまった。

私だって、ストーカー呼ばわりはされたくはないのだよ。

「偶然にも、名前が分かったしね。ちょっと満足している部分もあるのよ」
「アツヒロでしたっけ?」

「こらこら。私の愛しい人を呼び捨てにしないの」
「すいません。あ、そういえば。お隣って、入居してきましたか?」

いつもの如く、櫂君はあっさり話題を変えてしまう。
どうやら、愛しのアツヒロさん話に興味はないみたい。
当然か。

「そういえば、まだみたい」

クリーニングも済んで、いつでも入居可能状態だけれど、引っ越しては来ていない。
空き状態が続くと、もったいないよね。

要らぬ心配をしていると、櫂君が窺うように訊いてくる。

「キャンセルとかないですよね?」
「それはないと思うけどね……。そんなにうちの物件がよかったの?」

「はい。話を聞いただけでもいいなと思っていたけど、この前お邪魔したら余計に気に入りました。部屋の感じも広くていいし。特にあの桜。なんか惹かれるんですよねぇ」

そうか。
櫂君もあの桜が気に入ったんだ。

実は、当時。
今の会社にもっと近い物件にも空きがあったんだけど、お祖母ちゃんに部屋を借りる時に、私もあの桜に惹かれて決めたんだよね。

あの桜は、何故だか心を惹くものがあるんだ。

大きく渡り廊下に伸ばした枝は、優しく包み込んでくれるような温かみがあって。
咲き乱れる桃色の花たちを見るだけで、自然と幸せな気持ちになっていく。

新緑の季節には、緑の葉たちが青々と生い茂り元気をくれる。

秋や冬は少しだけ寂しいけれど、凛とした枝ぶりもまたいいかなと。

「うちのマンションよりも、もう少し会社に近い物件もあるけど。そこに空きがないか、もう一度訊いてみようか?」
「うーん。そうですね。一応お願いします」

あんまり気が進んでいないようだったけれど、いつまでも見つからないよりはいいだろう。



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