桜まち 


「この沿線て、通勤には便利だけど、ラッシュの凄さがな」

駅に着くと、望月さんはホームに並びながら、眉をハチの字にして溜息をつく。
私も毎日の通勤ラッシュには辟易していたので同意して頷いた。

電車が滑り込んできて、有無も言わさず車内へと押し込まれる。
いつもなら雪崩れ込むように奥へと押しやられてしまうのだけれど、今日は少しだけ違った。
望月さんが私のために僅かに空間を作ってくれるように誘導してくれて、旨くつり革に掴まることができたんだ。

「ありがとうございます」
「いや。このラッシュは、さすがの川原さんでもきついでしょ」
「そうなんですよ」

と言ってから、さすがの川原さんでもって、どういう意味だろう? と心の中で疑問が浮ぶ。
けれど、その意味は多分よからぬことのように思えるので、訊くのはやめておこう。

望月さんは、電車内のせいか、元々そういう性格なのか、余り口数が多くはなかった。
ストーカー疑惑が一応はれた事にはなっているけれど、まだちょっと心配な私も通勤電車内では口にチャックをしていた。

望月さんの事は知りたいけれど、調子に乗って色々訊いてしまって、またストーカー疑惑が疑惑でなくなる可能性も否めないのでね。
お隣さんだし、これからもきっとまだまだ話す機会はあるだろうから、焦ることもないでしょう。

私が余裕をかましていると、あっという間に会社の最寄駅に着いてしまった。

「じゃあ、私はここで」

小さくお辞儀をして、押し出されるようにして車外に出る。
まだ車内にいる望月さんへ、ホームから軽く手を振って挨拶、なんて思っていたけれど、吐き出されたホームでよたよたフラフラしているうちに、電車が走り出していってしまった。
名残惜しく去り行く電車を見送り、私は会社へと足を向けた。


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