「……いない」
 朝目が覚めると、健留さんはベッドにはいなかった。
 シーツをめくると、なぜか健留さんのシルクのパジャマの上とショーツだけ着ていた。
 昨日のお風呂の後からの記憶がない。
 ひょっとして健留さんが着せてくれたのだろうか。
 ベッドサイドの時計を見るともう8時だった。
 健留さんはもう外出したの?
 彼の気配を感じず落胆していると、クローゼットルームの扉がそっと開いた。
 紺のスーツ姿の健留さんが現れる。
 良かった。まだ健留さんはいた。思わずホッとする。
「おはよう。起こしたかな?会長に呼ばれてこれから出かけるけど、綾乃はまだ寝てていい。昨日も相当疲れたのか、お風呂の中で寝てたよ」
 優しい口調で言うと、健留さんは私に近づいてキスをした。
 目を閉じて彼の優しいキスを受け入れる。
「今日は多分帰らないけど綾乃はゆっくりしてていい。明日の夜には戻る。朝食は清水に頼んでおくから」
「私ももう帰らなきゃ。兄さん達が明日ハネムーンから戻ってくるの。いろいろ準備しなくてはいけなくて」
 健留さんは私の言葉に眉根を寄せた。
「恭介はもう戻ってくるのか。休日くらいちゃんと休まないと倒れるぞ。恭介だって今の綾乃の顔みたら心配する」
「ちょっと整理するだけだから大丈夫。朝食はいらないわ」
 私は笑ってみせた。
「あまり信用出来ないな。もし無理したら会社も有給とってもらう。いいね。これは上司命令」
 健留さんは、私の瞳を覗き込んで念押しする。
 彼は意外と心配性だ。
 兄がいないと余計に私の事を心配する。
「わかったわ」
 会社を昨日で辞めたとは言えない。
 私は苦笑する。
 月曜日にはバレてしまうが、その時にはもう私はいない。
 人事部長も健留さんに事情を聞かれるかもしれないが、怒られることはないだろう。
「くれぐれも無理はしない事」
 健留さんが包み込むように私を抱き締めると、いつものシトラス系の香水の匂いがほのかにした。
 妊娠初期で匂いに敏感な私だが、健留さんの匂いはなぜか安心する。
「会長との約束大丈夫なの?」
 健留さんはちらっと腕時計に目をやる。
「ああ、もう行かないと。でもちょっと充電」
 健留さんは微笑すると、私の胸元に一つキスを落とした。
「行ってらっしゃい」
 私が自分ができる一番の笑顔をみせると、彼は私から離れてベッドルームから出て行った。
 彼の気配が完全になくなるのを確認すると、嗚咽が込み上げてきた。
 健留さんが会長に呼ばれたのは見合いのためだ。
 わかっていた事とはいえ辛い。
 もうこれで彼に会えない。
 彼に自分から触れることも、彼にキスされる事も、彼の温もりに包まれて眠る事ももうないのだ。
 しっかりしなくちゃいけない。
 あなたには私しかいないんだもの。私が守らなくちゃ……。
 まだ平らなお腹にそっと手をあてる。
 気持ちが落ち着くのを待ってからゆっくりとベッドから起き上がり、バスルームに向かう。
 昨日の夜から食べてないせいか、身体がふらふらした。
 じっと立ってシャワーを浴びるのも辛い。
 サッとシャワーを浴び終え、ハンガーにかけておいた服に着替える。
 今日はやることが一杯ある。
 ぐずぐずしてはいられない。
 健留さんの家に置いておいた私物を準備しておいた紙袋に入れ、私がいた痕跡を全て消す。
 荷物を持って玄関でパンプスを履くと、私はくるりと向きを変え、彼の家に別れを告げた。
「さよなら」
私の声が玄関に悲しく響く。
もうここには二度と来ない。
ペントハウスを出てエレベーターに乗り1階に着くと、コンシェルジュの清水さんと目が合った。
今日は会いたくなかった。
「おはようございます。外出ですか?その荷物では大変でしょう?お送りします」
 有無を言わせず、清水さんはにっこり微笑みながら無駄のない動きで私の手から荷物を取った。
「タクシーを呼ぶから大丈夫です。清水さんだってお仕事が……」
 戸惑っていると目の前に黒塗りのアウディが停車し、中からたまに見かけるコンシェルジュが現れると清水さんに車のキーを渡した。
「本間様をお送りするのも私の仕事です」
 清水さんが微笑する。
 この完璧なまでの営業スマイル。意外と曲者だと思う。
 きっと健留さんの指示だろう。
 いろいろと手際が良すぎる。
 このマンションは健留さんが所有しているし、彼が指示すれば部下である清水さんはコンシェルジュという枠以外でも仕事をする。
「成城の家までお願いできる?」
 失礼かもしれないが、溜め息混じりの声が出た。
 ちょっと厄介だが、家に着いたらそのまま帰ってもらおう。
「着いたらお声をかけますので、休んでいてください」
 清水さんは私の溜め息を気にせず、紳士的な態度で私をエスコートして車に案内する。
 車に乗り込むと、かなり疲れていたのかすぐに睡魔に襲われた。
 そんな私を見て清水さんが健留さんに連絡を取っていた事に、私は全く気づかなかった。
 
 
 


 
 

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