気がつくと、左腕には点滴の針が刺さっていた。
 点滴の管から黄色液体がポタンポタンとゆっくり落ちる。
 ここはどこ?と声を出す前に視界に健留さんが映った。
「おはよう。医者に診てもらってビタミン剤の点滴を打ってもらってる。あと30分くらいで点滴は終わるけど、今日は血圧が高いみたいだから安静にしてること」
 私が起きたのに気づいた健留さんは、今まで広げていたノートパソコンをしまった。
「ここはどこ?」
 私がチェックインした部屋ではない。
 病院にしては部屋のベッドが大きすぎるし、調度品も豪華だ。
「昔、綾乃と泊まったスイートルームだ。改装したのか雰囲気は少し変わったけどね」
 健留さんはサイドテーブルに置いてあった炭酸水をグラスに注ぐと私に手渡した。
「……ありがとう。今何時?」
「11時過ぎだ。よく眠っていたよ」
「そんな時間?健留さんは仕事はいいの?今日は月曜だし役員会議があるでしょう?」
 私が辞めた日に彼のスケジュールを確認した限りでは、今週は空き時間がないくらい会議や来客予定が入っていたはずだ。
「そんなに俺を働かせたいの?久しぶりに休暇を取ったんだ。暇そうにしてた司に仕事の事は任せたから大丈夫。特にこれからは、じいさん達の相手はあいつに任せないとね」
 健留さんは私の頬に手をやると、悪戯っぽく笑った。
「私のせいね……ごめんなさい」
「綾乃は謝ってばかりだね」
「健留さんはどうして私の妊娠に気づいたの?」
「この短期間で急に痩せたから心配で清水に調べさせた。だから会社を辞めた事も、俺の前から消えようとしてたことも全部知ってる」
 道理で全てがスムーズに事が運んだはずだ。
 建留さんにとって私の行動は想定内だったのだろう。
 下手に引き止めて予想外の行動をされるより、予測通りの行動をさせた方がいろいろ手配も出来るし安心だった訳だ。
 ずっと彼の手の内にいたのか。
「綾乃が京都の友達に送った荷物は、いま俺のマンションにあるから」
 建留さんは見かけによらず意地悪だ。
 ここまで考えが読まれたらもう逃げ場などない。
「……ごめんなさい」
「妊娠したことを謝ってる?それとも俺から逃げたこと?妊娠したことなら謝る必要ない。むしろ、ありがとうって言いたい」
 健留さんはシーツの上から私のお腹に手を当て至福の笑みを浮かべる。
「でも、予定外だったでしょう?」
「予定内だったよ。俺としては綾乃の子が欲しかったし、いつ出来てもいいと思ってた。だから、安心して産んで欲しい」
 健留さんは真摯な眼で告げると、ポケットから赤い小さな箱を取り出した。
「結婚してずっと俺の側にいて欲しい」
 健留さんは箱から綺麗なダイヤが散りばめられた指輪を取り出すと、私の左手の薬指にはめる。
「きれい……」
 それは私が好きな老舗ブランドで花のモチーフの指輪だった。
 私はこの指輪をよく知ってる……。
「どうしてこの指輪を選んだの?」
「情報元は恭介の奥さん。春香さんと婚約指輪の下見に行った時、ずっとこの指輪見てたって言ってたよ。一緒に店に行って選ぶのもいいと思ったけど、綾乃の体調が心配だったから」
「嬉しい。ありがとう。でも本当に私でいいの?赤ちゃんが出来なければ結婚なんて考えなかったんじゃないの?会長だってきっと反対するわ」
「そう言うだろうと思った」
 健留さんはサイドテーブルに置いてあった封筒から一枚の紙を取り出し、私の目の前で広げた。
 夫の欄にはすでに健留さんの名前が書いてある。驚いた事に証人欄もすでに記入済みで、兄と会長の名前が書いてあった。
「指輪も婚姻届も用意したのは今年の初めだ。綾乃が妊娠する前だよ。恭介には1ヶ月程前に署名してもらった。じいさんの署名をもらったのは今日だったけどね」
「今日はお見合いだったはずでしょう?どうやって会長を説得したの?」
「司にも協力してもらって親族が持ってる九条コーポレーションの株を買い占めた。21パーセントを保有して先週の金曜日に俺が筆頭株主になった。会長にはその事実を突きつけた上で、交渉したんだ。綾乃を認めなければ今週開かれる株主総会で会長と社長の辞任を要求するってね」
「それは……交渉というか脅しね」
 私は苦笑した。
 身内にも容赦ないなんて少し会長が気の毒になった。
「会長は君を脅しただろう?当然の報いだ。じいさんが綾乃を認めないなら九条を捨ててもよかったんだけどね」
「でも、九条のトップになるのは健留さんの悲願だったでしょう?亡くなったお父様の代わりに社長になるって健留さん初めて会った時言ってたわ」
「それはもう昔の話。うちの会社で綾乃を見つけた時には、もう優先順位が変わってたんだよ。他の男に手出しされないように自分の側に綾乃を置いた。それこそ職権濫用も良いとこだ」
 建留さんは自嘲する。
「……うそ……」
 信じられなかった。
 仕事に関しては常に冷静沈着な建留さんが公私混同するなんて。
「俺も綾乃に関しては独占欲が強いただの男だってこと。こんな男幻滅した?」 
「ううん。でも、ちょっと驚いた」
 私が笑ってみせると建留さんはちょっとホッしたのか珍しく破顔した。
 ああ、この顔好きかも。
 見惚れて彼の顔を見つめていると、彼の顔が近づいてきた。
「俺を夢中にさせた責任とってもらうよ」
 低く甘い声で囁くと、建留さんはそっと口付けした。
 それは、甘い媚薬だ。
 最初は軽く触れるくらいだったのに、急に舌が入ってきて奪うようなキスに変わった。
 息をするのも忘れるくらい必死でキスに応えていると、それに気づいた彼は急にキスを止めた。
「逃げた綾乃にちょっとお仕置き。それに、そんな顔する綾乃が悪い」
「だって、建留さんが可愛い顔するから」
「男に可愛いは禁句だよ。それより、婚姻届にサインして」 
 建留さんは胸ポケットからペンを取り出し、私に差し出す。
 彼と確認しながら書類に一文字一文字ゆっくり記入していく。
 自分の心臓の鼓動が建留さんに聞こえそうな程緊張していた。
 書き間違えたらまた会長に署名もらえるだろうか?
「大丈夫だよ。間違えても予備はある」
 建留さんは私の手元が震えるのを見てクスクス笑う。
 数分かけて記入が終わると彼は極上の笑みを浮かべて言った。
「まだ役所には提出してないけど、これからよろしくね、奥さん」
 奥さん……。
 耳慣れないが心地良い響きだった。
 彼の側にいられるのが嬉しくて、じわじわと涙が溢れてくる。
「愛してる」
 建留さんは私の涙を拭うと甘く囁き私をそっと抱き締めた。
「私も愛してる」
 10年間ずっと片思いしていて彼に自分の気持ちを伝えられたのは、この時が初めてだった。
 
 

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