B級彼女とS級彼氏

 第8話~その決壊が崩れ落ちる時~


「――こいつの背負ってる過去。それごと全部、お前一人で背負いきれるだけの覚悟があるのかって聞いてんの」

 小田桐の吐いたそのセリフに、今にも口から出そうになっていたモノが一気に引っ込んだ。
 誰しも一つくらい、人には決して言えない事、言いたくない事ってあるはずだ。たまたま、高校生の時にそれをポロッと小田桐に零してしまったが為に、こいつがその内どこかでその話を言ってしまうんじゃないかと、びくびくしながら私は生きてきた。
 だが、私の抱いていたただならぬ不安とは裏腹に、意外に小田桐は口が固かったようで、その事を誰かに話した様な形跡は一切見られなかった。と言うか、誰かに言う間もなく彼はアメリカに帰って行っただけの話だろうけれども。
 小田桐と言う人間は一見すると、とっつき難そうに見える。だが実際は他人の事でもまるで身内に起こった出来事かのように親身になって話を聞いてくれる。
 本当はとてもいい奴なんだと私はずっと思ってきた。
 ――無論、奴の鳩尾(みぞおち)に正拳突きをお見舞いするまでは、だが。

 最後に会ったあいつの態度は最悪だったが、何はともあれ、あいつが変に言いふらさなかったお陰で、私は今の今まで他人に変な気を使われることなく、平穏無事に生きてきた。なのに、突然現れ、突然その事を暴露しようとするのだから、こちらとしては必死でそれを阻止しなければならない。

「な、んだよ。それ……。あんたは一体歩ちゃんの何を知ってるって言うんだよ!」

 ――いや、もう、お願いだからそれ以上聞かないで。
 ぐっと握りこぶしを作り、小田桐に負けじと歯向かっている慎吾さん。
 申し訳ないけども私の目には情けなく耳を垂らし、大事なところを守るようにして尻尾をぐるんと内に巻きながらも、キャンキャンと泣き喚いている小型犬のように見える。慎吾さんが癒し効果のある小型犬だとすると、小田桐はさしずめ今流行のハスキー犬ってトコだろうか。目つきの悪い所とか凄く似ている気がする。
 って、二人をもし犬に例えたらなんて話、今はどうでもいい。とにかく、この小田桐の暴走を止めなければ。

「俺か? 俺は――」
「おだっ……、――ぅぷっ」
「?」
「どうしたの? 歩ちゃん?」

 やばい。さっき引っ込んでいた吐き気が喋った途端、ぶり返してきた。
 もし、我慢できなくなっても大丈夫なように、私は慌てて壁際へと体を方向転換した。 
 ――ああ、なんだろう。口の中の唾液という唾液が一斉に総動員しだした様な気がする。吐くのか? この二人の前で私は堂々とゲロッちまうのだろうか?
 もう、すぐそこまで来ている感覚がすると言うのに、かろうじて残っていた恥じらう心がそれを我慢させた。
 私は大きく息を吸い込むと、くるりと小田桐の方へ身体を向ける。今まで黙っていた分をぶちまけようと、思い切って声をあげた。

「あんたね、さっきから黙って聞いて、りゃ……、――ぅっ」

 ――ああ、もう駄目だ。私の根性もこんなもんか。
 声を発した事で私の決壊は脆くも崩れ落ち、すぐに小田桐に背を向けるようにして、もう一度壁へと身体を向けた。

「大丈夫、歩ちゃん? 気分でも……、うわぁっーーー!!」
「っ!?」

 丁度、タイミング悪く私の前に立った慎吾さんに向かってまるで滝のように溢れ出したあんなものやこんなもの、俗に言う“リバース”したものが慎吾さんのお気に入りの“リィーバイス”501を直撃した。
 目の前でピョンピョンと飛び跳ねている慎吾さんを見ながらも、出すものを出し切ってかなりすっきりしたし上手く“オチた”ので、とても気分が良かった。

「……――ぶっ! ぶははははっ!!」

 背後から大声で笑い転げている声が聞こえて振り返るってみると、小田桐は両手で腹を抱え、身体を折るようにして笑い転げていた。ひとしきり笑った後、ヒー、ヒーと言いながらも目に涙が浮んでくるのか、小田桐はその長い指の背で何度も目尻を擦った。
 まるで少年の様な屈託のない笑顔を見せ付けられ、さっきまでのイライラ感がまるで波が引いたかの様にスーッと消えていくのを感じたのだった。

 小田桐は時々笑う。
 人間なのだから面白い事があれば当然笑うのだが、彼に関してはめったな事では笑っている顔を拝む事が出来ないと、学生時代から有名だった。小田桐のファンだと公言している者ですら、拝む事が出来なかった人もチラホラと居る程の貴重な小田桐の笑顔。そんな小田桐の笑顔を過去に何度も見た事のある私は、度々心の中でちょっとした優越感に浸ったものだった。

「――あ」

 小田桐の珍しい笑い顔につい見とれてしまっていたが、今はそんな事より自分の所為でとばっちりを受けた慎吾さんに謝らなければと、カバンの中からティッシュを差し出した。

「……っ、慎吾さん! すいません、大丈夫で……はないですよね?」
「い、いや、これ位、大丈夫だよ」

 無理して笑顔を取り繕うとする慎吾さんだが、どう見ても目が笑っていない。
 そりゃそうだ。他人のゲロを浴びただけでも最悪だと言うのに、そのうえ、心底大事にしているジーンズにぶっかけられたのだから、流石の慎吾さんも文句の一つ位は言うはずだ。

「すみません! ちゃんとクリーニングに出して返しますから!」
「いや、本当にいいんだって。――それより、気分大丈夫? よっぽど気持ち悪かったんだね。ごめんね、疲れてたのに無理に誘っちゃって」
「慎吾さん……」

 ――ああ、何ていい人なんだろう。
 私が酔い潰れてしまったせいで、慎吾さんは小田桐と言う悪魔に絡まれ罵られた挙げ句、大事なジーンズにゲロまでぶち撒かれたと言うのに自分の事より他人の事を気遣えるなんて。
 そんな懐の大きな慎吾さんが、凄く大人で格好いいと思った。

 私が目をキラキラさせていたかどうかは判らないが、じーっと慎吾さんの目を見つめていると、何故か目を逸らされてしまう。

「……? ――っ!」

 もしや、口の周りにまだ残りがついているのかと思った私は慌てて袖口でぐいっと口元を拭うと、目の前にしわしわのハンカチがすっと現れた。
 その差し出された手を辿り顔を上げると、極上の笑顔で微笑んでいる嘔吐物まみれの慎吾さんが自分のジーンズを拭くのでは無く、ほぼ無傷の私に対してハンカチを差し出していた。

「あ、いやっ、もうこれ以上は……」
「いいよ、使って?」
「慎吾さんこそ、使ってくださいよ! あっ、もしかしたらまだティッシュがあるかも」

 ガサゴソとカバンの中を探していたら、又もや背後から「チッ」と舌打つ音が聞こえてくる。慎吾さんに追加のティッシュを差し出した後、そのまま小田桐の方へと振り返った。

「何だ、まだあんたいたの? さっさと帰ったら?」
「――っ」

 さっきまではご機嫌で笑い転げていたというのに、何が気に入らないのか今度は腕を組んで眉間に皺を刻みだす。帰れと言っているのに何故かピクリとも動こうとしない小田桐をそのままそこに置き去りにし、私と慎吾さんはさっさとその場を後にした。

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