晴れた空、花がほころぶように
1 真夜中の出会い

 真夜中。
 みんなが寝静まって、外灯しか目を光らせていないひっそりした夜。
 こっそりと、家を抜け出した。
 ドキドキする。
 見てる人なんか、誰もいないのに。
 裏の勝手口から出ると、昼間の残暑が嘘のような冷たい空気が流れていた。
 閑静な郊外の住宅地は、ほとんどが明かりを消して、静けさに包まれている。
 いつもは通らない、家の裏側に当たる道を、私は歩いた。
 本当に静かだ。
 裏道なこともあってか、全く知らない場所を歩いているような気さえする。
 落ち込んだ気分が、少しだけ軽くなった。
 来年は中3で、高校受験も控えているのだから、ピアノのレッスンは休んだらどうかと親に言われて、ふてていたのだ。
 自慢ではないが、勉強はそこそこできるほうだ。
 志望高校だって、範囲内だとこの間言ってもらえた。
 ピアノのレッスンで勉強をおろそかにしたことはないし、その逆だって、勿論ない。
 音大に、行きたいと思ってた。
 できれば、ピアノを弾いて暮らしたいとも。
 ピアニストになれればいいんだけれど、なれなくても、ピアノの先生とか、音楽の先生とか、とにかく、ピアノにずっと関わっていたかった。
 でも、地方に暮らしている私がそれを夢見るのは、どこか現実味がなかった。
 中学を卒業したら、大半が地元の高校へ行くのが当たり前。
 理由は近いから。
 何人かの子は、隣の市の進学校へ行くが、それも何人かだ。
 私もそこを狙っているが、経済的に裕福とは言えない家では、負担は大きいだろう。
 父親が普通の会社員で、母親はパートで働き、次に受験を控えた4歳下の弟もいる。
 音大なんて、ここでは夢のまた夢だ。
 普通の高校に行って、普通の短大か専門学校に行って、結婚するまでの場つなぎの就職。
 そんな未来しか、私にはないのかと、実はかなり落ち込んでいた。
 気がつけば俯いていた自分に気づいて、はっと顔を上げる。
 視線の先には真っ直ぐに続く道路。
 電信柱についている水銀灯もずっと先までは照らせていない。
 不意に、その薄暗い道のその先まで走りたくなった。
 真っ直ぐに駆け抜けたら、何かが変わるような気がした。
 思い立ったら、身体が動いていた。
「――」
 夢中で走った。
 これ以上走れないぐらい。
 体育の授業以外でこんなに走るのは久々だった。

 苦しいけれど、気持ちいい。
 このままずっと走っていきたい。

 だが、普段あまり運動しない私は、すぐに息が切れ、ダッシュはマラソンの速度へ変わりつつあった。
 その時。
 私が向かっていた先のすぐ手前の角から、誰かが曲がってきた。

「!!」
「!?」

 まともにぶつかった。
 それだけじゃない。
 勢いで、その人ごと倒れていったのだ。
 人を下敷きに、私は地面との正面衝突を免れた。
「って……」
 私の下で、男の子の声がした。
「ご、ごめんなさい」
 言いながら、顔を向けると、薄暗い水銀灯の明かりに照らされた、私と同じくらいの男の子と目が合った。
「――」
 私は、その男の子を知っていた。
 天野《あまの》空良《そら》。
 同級生だ。
 私は2年2組で、彼は3組。
 でも、私は彼と話をしたことはなかった。
 ううん、私は、彼が誰かとおしゃべりをしているのを見たことがなかった。
 多分、みんな、そうだったろう。
 彼はあまり学校に来なかった。
 休んだ次の日は、彼は必ず顔に痣をつくってくる。
 殴られた痕。
 噂はすぐに広まる。

 二中の奴らと喧嘩した。
 家庭内暴力だ。
 ヤクザにスカウトされてる、etc。

 誰も本当のことは知らなかったけれど、噂ばかりが先行して、「一中の天野空良には近寄るな」というのが確実な伝令のように広まっていた。

 あまの そら。

 正直、その名前は、女子では人気だった。
 とても詩的な名前だから。
 私もそう思った。
 それに、顔がよく腫れていたり、紫の痣がほとんど絶えることがなかったけれど、彼はきれいな顔立ちをしていた。
 部活で真っ黒になった男の子達と違って、そんなにやけていなかったし、中学生にありがちのにきびもほとんどなかった。
 目つきは鋭く、無表情、無愛想なので全体的に恐いイメージが定着していたが、どことなく潔さみたいなものが感じられた。
 大きくなる噂に対して、彼は空気のように静かだった。
 ただひっそりと、何事もないかのように自分の席にいた。
 ただ黙って、時間の過ぎるのを待つように。
 そして、体育や図工などの技能教科の時間に、よく彼はいなくなる。
 そのほとんどは5、6時間目なので、そのまま学校から姿をくらますこともある。
 姿をくらまして何をしているのか、様々な噂や憶測が飛び交ったが、真相は誰も知らないままだった。
 先生達もなぜか遠巻きに彼に接していた。
 1年生の時に呼び出された父親が校長室で暴れて以来、学校は逃げ腰になったのだと、これも噂で聞いた話だ。
 ほとんどそんな遠巻きに、機会があればほんの少し視界に入るような天野空良が、今、私の目の前にいる。
 彼は少し驚いていたようだった。
 こんな時間に、私に会ったことに。
 まじまじと私を見つめ、
「あんた、何やってんの、こんな時間に」
 そう言った。
 ちょっと低めの、いい声だった。
 この前見かけた口元の痣は消えていた。
 代わりに、左頬に軽い痣があった。
 とっさに、私は言った。

 月見だと。

 彼は言われて頭上を仰いだ。
 月なんか、欠片もない。曇り空だったから。
 彼はふきだした。
「月なんか、どこにも出てねえじゃん。それに、ダッシュで月見って変じゃね?」
 彼は、笑うと本当に優しい表情になって、私はびっくりした。
 そもそも、彼の声を聞いた時点で、びっくりしていたのだ。
 予想もしていなかったちょっと低い、でもやわらかな優しい声だったから。

「あんた、2組の高森花音《たかもりかのん》だろ」

 天野空良は、そうして、三度、私をびっくりさせた。
 今度は私が彼をまじまじと見つめてしまった。
「よく、昼休みに第二音楽室でピアノ弾いてるだろ。俺、準備室にいるから聞こえてくる」
「……準備室で、何を……?」
「隠れて昼寝。あんた、クラシックをよく弾いてるから、いいBGMだった。よく眠れる」
「……ああ……」
 休み時間、どこにいるかと思ったら、二音の準備室か。
 昔は大規模校だったうちの中学には、音楽室が二つある。
 今では生徒数も減り、授業でも部活でも第一音楽室を使っているため、二音はほとんど使われない。
 アップライトしかないうちのピアノよりグランドピアノが弾きたくて、担任の先生に頼んで昼休みに時々使わせてもらっているのだ。
 しかし、準備室に彼がいたなんて、全然気づかなかった。
 眠っているなら、それも当然か。
「あんたんち、こっちなの?」
 空良は自分の背後を親指で指し示した。
「ううん。あっち」
 私は自分の背後を指さした。
「うちから逃げてきた?」
「え? ちが――」
「だよな。そんな感じじゃなさそうだ。どっから見ても」
 そう言って、空良は立ち上がった。
「立てる?」
「う、うん」
 私も立ち上がる。
 そのまま、空良は歩き出す。
 私が指さした方向へ。
「あ、天野君のうちもこっちなの?」
「違う。反対方向」
「え?」
 じゃあ、なんでこっち行くの?
 そう聞こうとして、気づいた。
 送ってくれるつもりなのだということに。
「このまま一人で帰らせて、何かあったら寝覚め悪いし」
「あ、ありがと」
 私は何だか嬉しかった。
 この時の私は、彼が言葉巧みに私を騙してどうこうするといった疑念は全く沸かなかった。
 中2にしては高すぎる身長でも、痩せているから怖い印象はない。
 噂や見た感じのイメージが先走りすぎているんだなと改めて思った。
 だって、私の歩幅に合わせてくれている。
 この人は、優しい心遣いができる人なんだ。
 私と彼は、ほんの少し間を開けて、歩いた。
 薄暗い夜道なのに、心は全力で走った時みたいに弾んでいた。
 多分、誰も知らないだろう天野空良の一面を、知ったからだ。
 でも、そんなに長い距離を走ったわけではないので、歩いて戻っても、すぐにうちの前に来てしまった。
 私が止まると、空良は振り返った。
「ここ?」
「うん」
 静まりかえった家。
 起きている気配はない。
「送ってくれて、ありがとう」
「もう、こんな夜中に一人で出歩かないほうがいい。危ないから」
 それだけ言うと、空良はもと来た道を戻っていった。
 私は振り返らない空良を小さくなるまで見送ってから、家へ戻った。
 部屋に戻って着替え、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
 百聞は一見に如かずというのはこのことなんだろう。
 天野空良は、全然悪そうな人じゃなかった。
 ごく普通の、私と同い年の男の子だったのだ。
 優しい、声だった。
 いつまでも聞いていたいと思うような声だった。
 その貴重な声を、数少ない彼の言葉を、反芻しながら私はようやく眠りに就いた。







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