晴れた空、花がほころぶように
5 彼が出歩く理由

「しかも、なんで、いつもより早いんだよ」
 そう呟いた彼の左頬が腫れて、唇の端が切れているのに気づいた。
「冷やさないと」
 上着のポケットからハンカチを取り出し、私は辺りを見回した。
 近くに、水場はない。
 彼に聞くと、
「この上に、あるけど」
 と、短い返事が返ってきた。
「ちょっと待ってて」
「え? おい――」
 言うなり、私は石段を駆け上がった。
 そんなに高くないから、すぐに石段は終わる。
 下の水銀灯の灯りも、まだここまで届いているから、真っ暗にはならない。
 奥には、神社の社が、そして、鳥居のすぐ右手側には手水場があった。
 あいにく手水場自体に水は流れていなかったが、すぐ脇の蛇口を捻ると水が出た。
 私は、持っていたタオル地のハンカチを濡らし、絞った。
 慌てて戻ろうとすると、すでに彼は真ん中の鉄の手すりに掴まりながら、石段の一番上に到着するところだった。
 その上がって来方が、辛そうで、私は駆け寄った。
「大丈夫?」
「止める暇もないのな。ちょっと、休憩」
 彼は、そう言うとゆっくり、石段の上に座った。
 私は、隣にしゃがみ込むと、濡れたハンカチを差し出した。
「さんきゅ」
 そう言って、彼は私のハンカチを左頬に当てた。
 ようやく、彼も私も一息つく。
「どうしたの、それ?」
 ハンカチで左頬を押さえた彼は、私の方を見ずに答えた。
「親父の機嫌が悪くてさ」
「お父さん?」
「ホントは親父が帰ってくる前に家出るつもりが、今日はいつもより早く帰って来ちゃってさ。それで、殴られた。足も蹴られたから、歩くの、ちょっとしんどいんだ」
「それが、よく怪我する理由? じゃあ、他中生とケンカしてるって噂は――」
 そこで、彼は呆れたように私を見た。
「そんな噂たってんのか――嘘に決まってるじゃん。俺、他中の奴らに会ったこともないのに」
「そっか――そうだよね。変だと思ったんだ」
「変って何が?」
「イメージに合わないっていうか、天野くん優しいから、ケンカってことに結びつかなくて」
「優しいって――どうしたらそう思うわけ?」
「だって、最初から、私に優しかったよ」
 私がぶつかっても、怒らなかった。
 反対方向なのに、毎回家まで送ってくれた。
 私の歩幅に、合わせて歩いてくれた。
 今日も、きちんと来てくれた。
「あんたが、変だから、怒っても無駄だと思ったんだ」
 そう言って、彼はまた視線を外す。
 でも、きっと照れているんだ。
「ごめんね。足も痛いのに階段上がらせちゃって」
「そうだよ。今日は2回目だ。全く」
「2回目って、ずっとここにいたの?」
「うん」
「週末は、いつもここにいるの?」
「うん。親父が、女を連れ込むんだ。家にいると、邪魔だって。だから、寝た頃に帰る。1日だけだから」
 彼が真夜中に出歩く理由は、それか。
「もう行こう」
 彼は、ハンカチを私に返そうとして、
「洗ってから返した方がいいか」
 そう聞いた。
「まだ頬に当ててて。返すのはいつでもいい。洗わなくていいから」
「さんきゅ」
 降りる時は、彼はもう手すりに掴まらなかったけど、私達はゆっくり降りた。
 いつもの角まで来ると、私はここでいいと言った。
 一人で戻れるし、足の痛い彼を長い距離歩かせたくなかった。
 でも、彼はそれをあっさり断った。
「やだよ。一人で帰して何かあったら寝覚めが悪いだろ」
 そう言う彼に、私は笑ってしまった。
「ほら、優しいよ」
 不思議なものを見るかのように私を見て、
「――変なやつ」
 会うたびにそう言う彼が、かわいく思えた。
 歩き出した彼に、ついていく。
「新しい曲、弾いてるよな」
 気づいてくれてる。
「うん。どの曲が好き?」
 彼は、少し考えてから、
「3つともいいけど、3番目に弾いてるやつがいい。最初ゆっくりなのに、途中で少し速くなるやつ」
 そう言った。
「――そっか」
 どうしよう。
 すごく嬉しい。
「なんて曲?」
 この前のように、彼が聞く。
「カノン」
「え?」
「パッヘルベルの、カノン」
 パッヘルベルは、バッハより前の人で、もともとオルガニストだった人。
 輪唱のように追いかけっこを繰り返すコード進行が、とても美しい曲なのだ。
「あんたと同じ名前だ」
「うん。うちのお母さんがこの曲を好きで、つけてくれたの」
「そっか」
 彼が曲名を二度、繰り返す。

 カノン。

 名前を呼ばれているようで、私の胸はどきどきした。
 そうしているうちに、家の前に着く。
「ちょっとだけ待ってて」
 いきなり私が言い出したので、彼は少し驚いたようだったが、
「――うん」
 それでも頷いてくれた。
「待っててね。すぐ戻るから」
 私は、急いで家に入ると、居間の引き戸を静かに開けて、すぐ脇のキャビネットを開けた。中には救急箱が入っている。
 常夜灯のおかげで、絆創膏の箱と湿布はすぐに見つかった。
 絆創膏の大きめのを2つ、湿布を2枚取り出すと、救急箱を元の位置にしまい、キャビネットの開き戸を閉め、居間の引き戸を元通り静かに閉めて外に出る。
 彼は、さっきと同じ場所にいてくれた。
 ハンカチで、左頬を押さえたまま。
「あのね、これ、使って」
 私が絆創膏と湿布を差し出すと、彼は表情が読めない顔で、じっと私が持っている絆創膏と湿布を見つめた。
 それから。
「――さんきゅ」
 短く呟いて、それを受け取ってポケットに入れた。
「またな」
 そう言った彼に、私は驚いた。
「――だって、また来週も来るんだろ」
 呆れたように彼は言った。
「うん。行っても、いい?」
 今更のような気もしたが、聞いた。
 彼に、頷いてもらいたくて。
「いいよ。でも、気をつけて来いよ」
 そう言って、彼はもと来た道を戻っていく。
 いつもよりゆっくり遠ざかる彼の後ろ姿を、私は見送ってから部屋に戻る。

 今日もたくさん、声が聞けた。
 すごく嬉しかった。
 来週も、来ていいと言ってくれた。

 彼の家庭環境は、どうやら複雑なようだ。
 でも、彼がいつものようにあっさりと話すから、心配も勿論あったけど、その時の私には、やっぱりどこか他人事だった。
 そのおかげで、私は彼と出会えたのだと、寧ろ高揚感を隠せなかった。

 カノンのコードのように、私は彼を追いかける。
 まだまだぎこちないけれど。
 いつか、美しいハーモニーを響かせるまで。





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