晴れた空、花がほころぶように
8 私の好きなもの

 すでに昼休みのピアノは私の日課になっていた。
 聞いてくれる人がいるとわかってからは、いつもよりすごく丁寧に、心を込めて弾く。
 準備室にいる彼は、聞いているのかな。
 それとも、眠っているのかな。
 どちらでもいい。
 そこに、確かにいてくれるなら。
 弾き終えると、私はピアノを元通りにして、音楽室を出る。
 扉を開けて出た所で、
「高森」
 急に声をかけられた。
「!?」
 扉の前にいたのは、東堂くんだった。
 私はびっくりした。
 なぜ、こんなところに東堂くんがいるのか。
「テスト期間中なのに、何でピアノ弾いてるんだ?」
「――」
 どうして東堂くんがそんなことを聞くのかもわからなかった。
 だから、答えたくなかった。
「もう掃除だから行かないと」
 前に立ちふさがっているので、避けようとしたら、腕を掴まれた。
「東堂くん、放して」
「なあ、俺達、付き合わないか」
 いきなり言われてさらにびっくりした。
「なあ、いいだろ」
「ごめん、私、そういうの考えたことないから」
「何でだよ。他に付き合ってるヤツとかいないだろ? いいじゃん、ためしてみれば」
「――」
 東堂くんの言っている意味がわからない。
 付き合うって事は、好き合ってる同士がするものだと、私は思っている。
「好きでもないのに、ためしに付き合うなんてできない」
 東堂くんは、苛立たしげに顔を歪めた。
「だから、付き合ってみれば好きになるかもしれないだろ?」
 それはない。
 少なくとも、私はない。
 東堂くんは、私にとってはただの顔見知りだ。
 友達でも何でもない彼と付き合うなんて思ったこともない。
「何だよ、他に好きなヤツがいるわけじゃないし。別に、そんな深く考えることないじゃん」
 準備室側の壁が、いきなり、ダンッと大きな音を立てた。
 その音に、東堂くんは驚いて身を竦めた。
 その隙に、私は掴まれていた腕を放して、東堂くんから距離を取った。
「ごめんなさい。東堂くんとは何があっても付き合わないから、二度とこんなことしないでください」
 そうして、私は逃げた。
「高森!!」
 チャイムが鳴った。
 階段を下りると、みんなが掃除場所に移動している。
 安心して、私は教室に戻った。





 帰り道には、メグと優希に昼休みあったことを話した。
 メグと優希は、信じられない顔をした。
「ばっかじゃないの!? 何がためしによ!!」
「付き合うって事がどういうことか全然わかってないわね、あのバカ」
 ほっとした。
 メグと優希が怒ってくれるのだから、私が感じている『付き合う』の定義は、私達にとって何もおかしい事じゃない。
 東堂くんがどういうつもりで私にあんな事を言ったのかはわからないが、いつもの冗談なら、通じる相手に言って欲しかった。
 東堂くんは自分のクラスでも女子とよく話をしている。
 そういう相手に言えばいいのに、何も別のクラスの、ほとんど話すこともない私に言うことが信じられなかった。
「怖かったでしょ? 大丈夫?」
「うん」
 怖かったのより、気持ち悪かった。
 掴まれた腕もそうだけど、何より、かみ合わない会話が。
「ちゃんと何があっても付き合わないって言ったけど、通じたかなぁ」
「あいつ、自意識過剰のバカだからあきらめないかもよ」
 そうかもしれない。
 話していても、全然納得していないようだったし。
「来週からはさ、あたし達特別棟まで迎えに行ってあげるよ」
「そうだね。終わり頃なら、練習の邪魔にはなんないでしょ」
「いいの?」
「全然おっけー。東堂のバカは近づけないから安心して」
「ありがとう」
「花音は安心してピアノ弾けばいいよ。あたしらにまかせとけ!」
「――うん」
 メグと優希とずっと友達でいられるのは、こういう所がきちんと分かり合えるからだ。
 自分の好きなものや自分の好きなことを、尊重してくれる。
 依存しすぎないし、いつもべったり一緒にいなくてもいい。
 女子が三人だと、結構どちらかがべったりで、残りの一人が倦厭されたり、上手くいかなくなったりすることもあるけど、私達は小学校からそんなこともなく仲良くできた。
 メグと優希は、私にとって、とても大切な友達だった。
 同じ女子でも、そんな風に感じられない子はたくさんいる。
 男子ならなおさらだ。
 同じ言葉を話しているはずなのに、奇妙なずれを感じる。
 中学校に入ってからは、そのずれを、ますます感じるようになった。
 私がどこかおかしいのかと感じることもあるけれど、考えすぎずにすむのは、メグと優希がいてくれたからだ。
 二人と別れて、私はまた、山の上の神社へ向かう。




 彼は、昨日のように階に座っていた。
 その姿に、私はほっとする。
「天野くん」
「大丈夫?」
 彼は私が声をかけるのとほとんど同じに言った。
「え?」
「あれ、うちのクラスの東堂だろ」
 昼休みのことを言っているのだ。
「ありがとう」
「?」
「壁、叩いてくれたでしょ。あれで逃げられた」
「そっか。何か、壁越しでも高森が嫌がってる感じがしたからさ」
 私は、昨日のように彼の隣に座った。
「うん。私、東堂くん、前から苦手だったんだ」
「なんで?」
「話が合わないし、それに、声が、ダメなの」
「声?」
「低くて、いつも話す時に怒鳴ってるみたいで」
「ああ、そっか。確かに、クラスでもうるさいしな」
 彼は、私の言葉をきちんと聞いてくれる。
 彼とは、会話のずれを全く感じない。
「――私ね、ピアノの音が、一番好きなの」
 だから、言いたくなった。
「初めてピアノの音を聞いてから今まで、ずっとピアノが大好きなの。いつまでも、聞いていたいって思うの」
「うん。高森が、すごくピアノを好きだって事はわかる」
「自分でも変だって思うけど、綺麗な音や曲を聴くとたまらない気持ちになる。叫びたいような、喉が渇いて仕方がないような、そんな気持ち」
「うん」
「天野くんの声を聞いても、そう言う気持ちになる」
「俺の声?」
「うん。すごく、好きなの」
 目が合った。
 私達は、少しの間、互いの顔を視つめていた。
 その間、彼は何かを考えているようにも見えた。
 次に、何を答えればいいのか、そんな表情だった。
「――ホントに、変なヤツだな、高森って」
 それでも、彼は私の言葉をきちんと受け止めてくれた。
 それが、わかった。
 いつもの、優しく、柔らかく響く彼の声で。
「俺の声聞くと叫びたくなるのか? それは困る。俺が悪さしてるみたいじゃん」
 彼が照れたように笑う。
 その顔も好きだ。
 私も笑った。
 それから、私達はまた何事もなかったように勉強した。
 数学を、彼が教えてくれて、音楽を、私が教える。
 昨日よりももっと、彼は優しかった。
 昨日よりももっと、私は嬉しかった。
 一緒にいる時間が、優しく流れていく。
 ピアノを弾いている時みたいに。

 ピアノが一番だった私に、もっと大切な一番ができた。
 それが、天野空良だ。






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