ビターチョコ

意外なプレゼント

「お疲れだったんだね」

「ん?」

聞こえたのは、麗眞くんの声ではない。

つい最近、初めて聞いた声。
男性にしては少し高い声だ。

南さんだった。
記憶がない。
いつの間にか眠ってしまったらしい。

皆は、コップに注がれたほうじ茶を片手に、各々談笑している。

「あ、凜さんが、岩崎さんにずっと渡したかったものがあったみたいなんです。
これは、母の鞠子さんが予約したものらしいですが。
病院内で、相沢さんが、凛さんから受け取ったらしいですよ」

そう言って、南さんが私に差し出したのは家電量販店の紙袋だった。

入っていたのは、傷一つない、真新しいネイビーの電子辞書の箱。

「辞書……?」

「本体もさることながら、それについているストラップが一番渡したかったものだったそうです」

そう言って、ストラップホールを見ると、お守りがあった。真ん中に「夢」と書かれている。

「『夢が叶う』と有名な関西地方の神社だそうですよ」

相沢さんの声に、思わず眼鏡を外して目元を擦った。
思わぬ時期に届いた、母からの入学祝い、といったところだろうか。

母は、娘である私よりは、仕事優先の人のイメージだった。
しかしながら、きちんと私のことも考えてくれていたんだ。

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オックスフォード英英辞典や、リーダーズ英和辞典、など役立つものが入っているようだ。

「なんで、こんなの……?」

「岩崎さんの母である鞠子さんが、理名さんを見ていて、絶対優秀な医者、あるいは看護師になると勘付いていたようです。

鞠子さんの知り合いの知り合いが、電子辞書メーカーの社長秘書だったようでございます。

将来この辞書が出たら、彼女自身の名前で予約と同時に取り置きしてもらえるように取り計らったそうですよ。

ですが、鞠子さんは子宮頸がんにより亡くなってしまった。
その話を病床で聞いた凛さんが、鞠子さんの代わりにと、予約したものを保管していたそうです。
このお守りも、鞠子さんがそうするように、と彼女に伝えた、とうかがっています」

「わたし、そんなの全然知らなかった……」

「ふふ。
理名様、驚かれるのはまだ早いですよ?
驚くのは、箱を開けて電子辞書をご覧になってからのほうがよろしいかと」

「こんなあっさり開けちゃっていいの?」

「不良品では困りますから」

納得して、箱を開け、緩急材のプチプチから丁寧に電子辞書本体を取り出す。
本体の色は濃いネイビーで、いかにも私が好みそうな色だ。
パネルもメインとサブの二つあり、サブパネルのほうに手書きで文字を書いて認識させられる形式のようだ。

「理名様。
誠に勝手ながら、こちらに旦那さま……麗眞坊ちゃまの父上、でございますが。
彼の知り合いに頼んで手を加えさせていただきました」

丁重に頭を下げる相沢さん。
日本語は分かるけど、イマイチ何を言っているのか理解不能だ。

「理名様。
電子辞書のサブパネルの脇に、更新というボタンがありませんか?」

そういえば、電子辞書には似つかわしくないボタンがある。

「そちら、新しいバージョンのものがリリースされた場合、勝手にインターネットから新しいものを引っ張ってきてくれる仕組みとなっています。
もちろん、無線アクセスポイントがあればインターネット接続も可能でございます」

これ、もはや電子辞書じゃなくて、別の名前の機械じゃないの。

「でも、勝手に改良していいの?」

さ「いいのです、旦那様の知り合いには、エンジニアはもちろん、あらゆる業種のプロがたくさんいらっしゃるのです。

人脈は使ってこそ、です」

 はあ……ほんとに、人脈、広いのね。

「ちなみに、先程、ババ抜きの際にお使いになったあの機械、あれもその電子辞書を改良された方が開発したものでございます」

この人たち、何でもありね。

そのうち、タイムマシンとか、人の記憶を操作出来るとんでもない機械とか、作ってしまいそうだ。
そんなおかしな妄想は、脳内から追い出すことにした。
ありもしないことを考えるなんて、私らしくない。

相沢さんと南さん。
やけにこの場に馴染んでるけど、ここにいていいの?
相沢さんなんか、嬬恋プリンスホテルに部屋とってるんじゃ……

「事情を説明したら快諾してくださいましたので。
朝日が昇る頃にはあちらに戻りますし」

そう答えた相沢さんは、南さんを連れて、部屋の外に出た。

「事情を知っていらっしゃる方が、特別に入れるようにしてくださったようですので、私たちは軽く汗を流して参ります。
理名様、麗眞坊ちゃま、伊藤様はどうぞごゆるりと」

相沢さんたちが部屋を出ると、麗眞くんに、私が気になっていたことをぶつけた。

「ね、聞いていい?
麗眞くんの将来の夢、って?」

「俺?」

「俺、はね、一応刑事かな。
ゆくゆくはCSIとか、あるいはCIAとかもいいかもな。
もう親父が副業2つ掛け持ちしてるし、俺もそれくらいやれるよ」

昨日、じゃなくて、一昨日少し声を聞いた、背の高い人か……

「財閥当主とアイドルとFBI科学捜査官だからなあ。
まあ、捜査官のほうは後輩にほとんど仕事投げてるらしいけど」

え。アイドル?
ほんとうに、たまにはTV観てみようかなあ。
友達の両親の事情も少しは知っておくべきだろう。
なんて考えていると、麗眞くんの口から衝撃的な言葉が飛び出した。

「椎菜にはもちろん、深月ちゃんたち、美冬ちゃんたちにはまだ言うなよ?
高校卒業したらカナダ行く。
もう決めてるの。

向こうの大学行きつつ、向こうでちゃんと刑事としてのノウハウ学ぶ。
だから、俺の代わりに、椎菜のことよろしく頼む」

口は堅いから大丈夫、という、喉まで出かかった言葉を飲みこんでしまうほどの衝撃だった。

ええっ!?
私の脳裏に、麗眞くんのことが大好きな椎菜ちゃんの、照れたような、はにかんだような、女の子らしい笑顔が浮かんだ。

もし、彼女が何らかのきっかけでそれを知ってしまったら。

麗眞くんは、椎菜ちゃんは。
どうするつもりなのだろう。

椎菜ちゃんは、見た目とは裏腹に、芯の通った子だ。
一途に、麗眞くんの帰りを待つことは出来るだろう。

だが、彼女に対しては度が過ぎるくらい過保護な麗眞くんが、彼女と遠く離れた状態で、平穏に生活できるのだろうか。
それが、心配だった。
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