「竹の春、竹の秋」

9.

 タクミは、ベッドに腰をかけて携帯電話を見つめているようだった。拭き切れていない髪から滴ったのだろう、肩と腕のところどころが濡れて光っていた。タオルを巻いた腿に肘をついた姿勢で、睨むような表情に見えた。どこかにかけていたのだろうか、それとも、どこからかの電話を待っていたのだろうか。

 薫は、バスタオルを腰に巻いて、フェイスタオルで頭を拭きながら薫はユニットバスの敷居の下に置いたスリッパに足を入れた。ビニル製のスリッパが足の裏に付く感じが好きではないけれど、靴のまま入るホテルのじゅうたんに素足で立つ方が気持ち悪かった。ペタリペタリと音をさせて、ベッドに近づく。タクミは顔を上げない。
 タクミに向かい合うようにして、ベッドに腰掛けると、タクミはやっと頭を上げて薫を物問いたげに見た。頭を拭く手を止めて、薫はタクミを見つめ返した。タクミは手にした携帯電話をサイドテーブルに置いて、祈るように手を組んだ。それから、
 「本当にいいの?」
 と、薫に尋ねた。薫は濡れた髪を手で梳きながら
 「そっちこそ」
 と笑った。本当に覚悟をしなければいけないのは、自分ではない。この男だ。こんな風に痛々しげに誰かを抱かなければいられない男を、自分はどうしたらいたわってやれるのか想像もつかない。ただ、自分はただ、この男に抱かれるだけでいい。そして、きっとそれだけで彼が癒されると信じたかった。

 きっかけを作ろうとして薫はベッドから立ち上がり、頭を拭いていたフェイスタオルを鏡の前の椅子に掛けた。そうしてベッドを振り返ると、窓際のスタンドが作る自分の影がベッドの端にゆらゆらと揺れていた。ペタリと、一歩踏み出した。ペタリ、ペタリ、と二歩。手を伸ばしたら届くところまで。
 自分を見上げるタクミの顔が影になって見えない。薫はそっと手を伸ばす。『この手を取って、さあ』、と。

 タクミが薫の手を取った。ぐいと、引かれて薫はタクミの膝に片膝をついてタクミを見下ろした。ここまで近くなれば、今度は逆光のタクミの顔もよく見えた。その顔は薫が思っていたよりも無表情だった。
掴まれていない方の手でタクミの頬を撫でるとタクミはその手に自分の手を重ねた。
 名前を、呼んでみようか。『タクミ』と、呼んでみようか。これから肌を合わせる相手の名前を呼び捨てにするなんてよくあることだ。だけれど薫は呼ばないと決める。似ているという誰かが、タクミをそう呼んでいたのだとしたら、自分は彼ではないというせめてもの抵抗だと思った。
 試したらいい、似ている誰かの代わりに抱いていいと言ったのは自分なのに、そんな小さな反抗をする。

 キスをする。唇の横に。恋人ではないから、唇を重ねることはしない。タクミが目をつぶった。頬にキスをすると、いかにもキスをした音がした。薄暗い部屋に響いたその音が、この夜のスタートだという気がした。チュ、チュと、音を立てて、薫はタクミの頬に、耳の裏に、キスをした。タクミは薫の手を放して、薫の背に手を置いた。ぞくり、と何かが薫の背を走り抜ける。

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