バンビの誘惑
夏は夜
 耳が、やけどしそうに熱い。
 部屋はとても涼しくて、足の先なんて冷たく冷え切っているというのに、右の耳だけがすごく熱い。
 いや、違う。
 頬も、胸も、顔の横で縫い留められた手首も、すごく熱い。

「すごく可愛いですよ」

 耳元で、彼が低く低く囁く。
 私は、小さく「んッ」と息を漏らしただけで、もう、首のひとつだって動かせない。
 体中が、熱くて熱くて動かない。

「もっとなかせたくなるな」

 そう言いながら、ペロリと耳をなめられて、思わず声が漏れた。

 彼は少しだけ笑い、首筋にキスを落としながら、ゆっくりとシャツのボタンを外していく。
 1つ、2つ、と外したところで手を止め、唇を離し、身体を引いた。

(見られてる……)

 少しだけ身体を捩ってみるけれど、掴まれた右手はもちろん、自由なはずの左手までがなぜだか動かせない。
 反射的に膝をつけて脚を閉じようとしたけれど、太ももの間には彼の膝があって閉じられなかった。
 彼の方が、何枚も上手だ。

 いけないことをしているのだという自覚はある。
 けれど、背徳感は驚くほど低い。
 互いに愛などないと自覚している夫婦の不倫なんて、たいしたスパイスにもならないのだと初めて知った。

 そんなものよりも、女として扱われることへの高揚感の方がずっと大きい。

 自分に年をとった自覚がなくても、どんなに若く見られていても、年はとる。
 若く見えたって、本物の若い子と並べれば、全然違う。
 そう気づいてからは、老いがひどく怖くなった。
 どこへ行ってもチヤホヤされていたはずなのに、そのポジションには別の若い娘がいる。
 可愛がってもらえるのは、年寄りの中と仕事で役に立つ時だけ。
 「若い」には「実年齢のわりには」と無音の条件が見えるようになった。

 そういえば昔、不老不死を求める人が理解できなくて、誰かと討論したことがある。
 不老不死なんて、一人残されていく浦島太郎じゃないかって。
 自分だけいつまでも若く生きていたって、みんな老いて死んでいってしまうのにって。
 理解できないって。
 それなのに、なぜこんなにも多くの不老不死を求めた物語があるのか。

 今ならわかる。
 老いは怖い。
 醜い自分が想像できない。
 醜く老いた自分が胸を張って歩く姿が、どうやってもイメージできない。

 別に昔から、特別に美人だったりするわけじゃない。
 けれど、「手の届く可愛さ」が自分のウリだった。
 憧れるんじゃなくて、自分の隣に置きたいと思える可愛さ。
 それは、何にも勝る自分の武器だと理解していた。
 当然、武器は磨く。
 手入れしない武器なんて、どんな名刀だったとしても役に立たない。
 逆も然りだ。
 その辺に転がっている普通の石でも、研磨すれば驚くほど美しくなることを知っている。
 だから、何の努力もせずに他人を羨む女は大嫌いだし、基本的にデブは自己管理ができないくせに他人を羨ましがってばかりいるから好きじゃない。

 私が普通でないことはわかっている。
 骨格上、努力ではなんともならないブスだっているし、遺伝子上、どうやっても太ってしまう人がいることだって知っている。
 そういう人まで嫌いなわけではないし、実際、私にはそういう友達もたくさんいる。
 自分の生き方が唯一絶対だなんていわない。
 ただ、私はこうやって生きてきたのだ。
 他の生き方なんて、知らない。

 廃刀令が出た後の侍は、どうやって生きたのだろうかと思う。
 別に、侍だからって、剣術だけやっていたわけではないだろう。
 学問だってちゃんとやっていたはずだ。
 私だって、外見に頼って生きてきたわけじゃない。
 学歴もある。
 家事も得意。
 パソコンだって機械だって、その辺の一般男性よりよっぽどできる。
 仕事もできるし、人望もある。
 それでも、剣士が剣を失って変わらず生きられるのか。

 私がブサイクなら、きっと違っていたのだと思う。
 剣を持たなかったなら。
 剣術の才覚がなかったなら。
 けれど、人は一度手に入れたものをなかったことにはできない。
 だから、怖い。

 あるいは、と考える。
 あるいは、結婚生活が普通にうまくいっていたならば、老いていくことも良しとできたのかもしれない。
 愛し愛されていると実感できたなら、もう、必要のない剣だったのかもしれない。

(そしてそれが、きっと普通のしあわせ)

 普通を手に入れられない私は、今日、不倫した。
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