***

 鬼だの悪魔だの。


 彼はそんなことを叫びながら、私から走って逃げていく。それを私は足早に追いかけた。逃げこむ場所は分かっている。

 階段を登って、体当たりで閉ざされた扉を破ると追い詰められた彼の姿があった。私は足で扉を閉めて、唯一の出入り口を塞いだ。逃げ場のない密室、私の部屋にとうとう彼を追い込んだのだ。


「國崎……」


 彼は焦りを含んだ声で私の名前を口にした。私は口の端を引き上げて笑い出すのを堪えていた。

 数秒間、睨み合い、私は一歩を踏み出そうとした。その時、彼は冷や汗をかきながら、掌を私に向けて制止した。


「おい、落ち着け。まずは止まれ。そして、俺に近寄るな」


「恋人に向かって近寄るな、だなんて随分と酷いことをおっしゃいますね、先輩。こんなに大好きなのに、どうしてそんなに冷たいんですか。ツンデレですか、そうなんですか」


「ツ、ツンデレ……?何語だ、それは」


 警察官というお堅い職業柄か、元来の性格によるものなのか、はたまた年の差の所為なのか。

 彼は世俗に疎かった。説明したところで理解できないだろうと思い、彼の問いは黙殺した。


「諦めてください、もう先輩に逃げ場はありません」


 じわりじわりと這い寄るように距離を詰める私に対して、彼は一歩、また一歩と後退して行く。


「こんな……こんな、恩を仇で返すような行いがよくできるな!見損なったぞ、國崎!高校の時も大学でも赤点の度にお前に勉強を教えてやってたのは誰だと思ってんだよ!」


「先輩です」


「そうだよ、俺だよ!今日だって、お前の卒論の手伝いに来たのに!なんでなんだよ……なんでこんなことするんだよ!」


「その件については大変感謝しています。ドウモアリガトウゴザイマス。けれど、それはそれ、これはこれです」


「おかしいな、感謝の気持ちがまるで伝わってこない!」


 先輩は半泣きの情けない声で私に怒りをぶつけた。長身で、筋肉質な大の男が小柄で痩せ身の女に追い詰められている不思議な状況だ。

 けれど、彼は本気で私に怯えていた。柔道、剣道、逮捕術など、日頃の訓練で鍛えられた大きな身体を小さく丸めている。


「先輩の臆病なところは高校生の時から変わりませんね。先輩と初めて会った時のことを思い出します。あの時も先輩は」


「思い出さなくていいから!それより早く、その手に持っている凶器をなんとかしろ!いや、何とかしてください!!」


「凶器?人聞きの悪いことをおっしゃいますね。私、凶器なんて危ないもの持っていませんけれど?」


「俺にとっては凶器なんだよ!」


「そんなに嫌ならお得意の武術でこの凶器ごと私を倒したらどうですか」


「そんなこと出来るわけないだろ!あっ、バカ、それ以上近寄るな、こっちへ来るなー!!」


 彼は叫びながら、大きく一歩、後退した。踵が壁にコツリと当たって、止まる。私の部屋はいつまでも逃げられるほど広くはない。

 遂に私は彼を壁際まで完全に追い詰めたのだ。これでもう、王手。絶対に逃がすことはない。


「お前、自分が何をやろうとしているのか分かっているのか……?」


「先輩こそ、彼女のお家デートで逃げ惑うなんて恥ずかしいことをしている自覚はおありですか」


 彼はそれでもなお、私から逃げようと身体を横にずらして移動を試みる。その進行方向に私は足を振り上げ、壁を乱暴に蹴って足で彼の退路を塞いだ。

 本当は両手を壁について完璧に逃げられないようにしてやりたいが、生憎、両手は塞がっている。


「は、はしたないことするなよ!」


「先輩が逃げようとするから……でも、逃がしませんよ。さあ、覚悟を決めてください、先輩」


「く、くにさき」


 私は震える先輩に目を細めて、意地悪く微笑んだ。彼はごくり、と生唾を飲み込む。


「せんぱい、だぁいすきです……にゃん」


 ふわりと軽やかに、私は彼の胸に飛び込んだ。

 もふっ、と柔らかい感触で胸元に包まれるのと同時にぐっと彼の身体が強張ったのが分かる。そして、彼は身動き一つ取れず、固まってしまった。


「恋人なら、胸に飛び込んできたかわいい彼女を抱きしめ返すくらいしてくださいよ」


「……お前の腕の中のものがなければそうしている」


「そんなに怖いですか、この子」


 私はクスリ、と笑いを漏らして私と彼の間にすっぽり収まる白い毛玉に視線を落とした。人肌の温もりが心地よいのかその子はにゃあ、と甘えた声で鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


「はんぺんは大人しくていい子です。噛んだり、引っ掻いたりしませんよ」


「それは!お前が!飼い主だからだ!俺には噛んだり、引っ掻いたりするかもしれないだろうが!」


「臆病者」


「う、五月蝿い。猫は苦手なんだよ」


「猫って癒し効果あるんですよ。先輩、仕事で疲れているでしょう?癒して欲しいでしょう?ね?」


「癒しならお前だけでいい。猫はいらない、怖い」


 焦りのあまり恥ずかしいことも平気で言う彼に私は呆れてため息もつけない。愛猫のはんぺんともども全体重を彼の身体に預けて顔をその胸にうずめた。

 大好きな彼の匂いがした。私が猫なら、きっとはんぺんみたいに今頃、喉をゴロゴロ鳴らしたことだろう。


「……初めて会った時から先輩はまるで成長しませんね」


 高校一年生の時、私は美化委員だった。

 委員会の活動で校庭の清掃活動が行われ、私は校庭の隅で雑草を毟っていた。その時、草むらの影から野太い悲鳴が聞こえて、私は慌てて駆けつけた。

 そこで私が見たのは、人相が悪いことで有名だった空手部の主将が子猫を相手に腰を抜かしているというなんとも間抜けな醜態だった。聞けば、彼は見た目に反して小動物が苦手らしい。

 そして、その後、私はそれをネタに彼を脅した。もとい、交流を深めた。

 委員会の仕事を自分の分まで手伝わせたり、テストがある度に勉強を教えてもらったり、大学の課題を手伝わせたり。

 その他諸々、私は彼に甘え続けた。その関係は私が大学生、彼が社会人になっても続き、知らないうちに互いに惹かれあって今では恋人同士。

 出会って七年、付き合って三年。

 立派な警察官になっても、未だに彼は小動物が苦手なままだ。


「まあ、私はそんな先輩も可愛くてしょうがないんですけどね」


 顔を上げて笑いかけると、彼は元から人相の悪い顔を余計に険しくした。他の人が見たら怒った顔に見えるだろうけれど、私には分かった。

 あ、これ、頑張ってる顔だって。


「生意気言ってんなよ、バカ」


 ぎゅうっと、背中に回された大きな腕が私を抱きしめた。はんぺんと私は彼の大きな腕の中にすっぽりと包まれていた。暖かくて、心地よくて、安心する。

 時間にして、僅か五秒くらいのことだったけれど。


「どうだ!」


 たったこれだけのことなのに、彼は偉そうに胸を張っている。大人気ないというか、なんというか。馬鹿な子ほど可愛いとはこういう気持ちのことを言うのかもしれない。


「訂正します。少しは成長しましたね、先輩」


 ご褒美です、と言って今日一番の笑顔でにっこりと頬を緩めた。顔を赤らめた彼に私から再度、抱きつくと、彼は声にならない声で悲鳴を上げた。

 壁とはんぺん、私に挟まれて彼が逃げることは不可能だ。私は彼の反応が可愛いくて、可愛いくて、ケラケラと声を立てて笑う。

 そんな喧騒の中、私達の腕の中ではんぺんは我関せずと言わんばかりにぐうぐう眠っていた。せっかくの日曜日だけれど、こんなお家デートもたまには悪くない。


 おやすみ、はんぺん。
 ありがとう、はんぺん。




 君のおかげで可愛い彼の姿が見られたよ。



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