「よし、視線はこっち。そのまま、動くな」


手の角度が違うだの、足の向きがどうだの、あれこれと注文づけられた姿勢で、私は止まる。

絵筆を持った手がしなやかに動き出せば、雑然とした部屋は、一息で彼の作り出す緊張感に染まる。

キャンバスの向こうから向けられる眼鏡の奥の瞳は、呼吸も許さぬほどに真剣なもので、私は微動だにせず一点を見つめる努力をする。


油絵の具の独特な匂い。

床には絵の具を吸って複雑な色に染まった雑巾が落ちていて、何枚もある真っ白なキャンバスは整然と壁際に並んで彼の色に染められるのを待っている。


ここは、都心から離れた郊外にある、彼のアトリエ。

窓の外は緑濃い風景が広がっている、とても静かな落ち着いたところ。

ここで私は、彼と一緒に暮らしているのだ。

洗濯炊事など身の回りの世話をしながら、時々秘書のようなこともしたりして。

要するに、体の良い雑用係といったところ。


そして今、私はふんわりとした白いワンピを着て、真っ赤なガーベラを一輪を持って、彼の前に立っている。

こうして彼のモデルを務めるのは、もう何度目だろうか。

街角で突然声を掛けられたのは、かれこれ五年前のこと。

私が大学生の頃だった。



『ちょっと、そこの人』

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