寡黙な夫が豹変した夜
「ねえ。何か変なモノでも食べたんじゃないの?あ。もしかして熱があるのかも?大丈夫?」
夫の額に手を伸ばして熱を確認しようとすると、その手をガッシリと握られる。
そして握った手に夫が力を入れると、私の身体は簡単に傾いて背中が壁に付いた。
----ドン。
私を囲い込むように、廊下の壁に夫の手のひらが付く。
「実は今日、真菜に怒られたんだ」
「真菜に?」
「ああ。ママがおしゃれをした日は褒めてあげないとダメだって」
「そんなことを真菜が?」
「ああ。参ったよ」
そう言いながら、夫は困ったように小さく笑った。
普段と何ひとつ変わらない我が家の廊下の風景も、見慣れているはずの夫の顔も、私の瞳にはいつもと違って新鮮に映り込む。
「思ったよりも早い帰りだったな」
「うん。二次会に行かなかったから」
「どうして?」
未だに壁に手を付けた体勢を崩さない夫の姿は意外なほど様になっているから、私の鼓動は簡単に高鳴ってしまう。
「実は二次会に向かう途中で、元カレにふたりきりで飲み直そうって誘われたの」
「へえ。それで?」
「元カレは綺麗になったって褒めてくれたけれど、私、ちっとも嬉しくなかった」
そう。私は後藤くんに壁ドンされても、褒められ口説かれても、心が全く揺れ動かなかったのだ。
後藤くんの誘いを断った私が向かったのは二次会会場ではなく、駅前のタクシー乗り場。
ついさっきまでは、夫のことなど忘れて同窓会を楽しもうと思っていた。
それなのに後藤くんに誘われた途端、早く我が家に帰って可愛い愛娘と寡黙な夫の顔を見てホッとしたいと気持ちが変化したのだ。