彼が眼鏡を外したら
-2-
 手を洗ってトイレから出た私は、まっすぐ宴会場には戻らず、人気のない通路を覗いてみた。いくつかの広間の前を通ったが、どこも賑やかな声が漏れてくるだけで、異変は見つからない。
 そして孝平くんらしき人影もない。
 男子トイレに入ることはできないから、誰かを呼びに行こうと通路を引き返す私の背後で、襖の開く音がした。
「ちょっと待ってよ。逃げる気?」
 慌てたような女性の声が耳に届くのと同時に、誰かが私の腕をつかんでいきなり走り出した。引きずられるようにして私も足を動かす。
「な、なんなの、これ」
 階段を駆けおりる。私は前を走る男に言った。息が上がって、それだけ言うのがやっとだった。
 どうやら私たちがおりてきた階段は非常用だったらしい。1階にたどり着くと、防火用の重そうなドアが目の前に立ちはだかった。
「このドア、開くと思う?」
 そこで初めて私の腕をつかんでいた男が振り向いた。
 私は思わず息を呑む。
「どうしてそんな目で見るわけ?」
「何、その格好……」
「いいから、質問に答えてよ」
 胸がドキドキと音を立てる。この動悸は走って階段を駆けおりたせいで、決して彼の浴衣の胸元がしどけなく着崩れているせいではない。そう私は自分に言い聞かせた。
「ドアは開く、と思う」
「じゃあ行こう」
 どこへ?
 そんな問いかけの隙も与えない素早さで彼はドアを開けた。
 ドアの向こうは小さな温室になっていた。日中は日当たりのよさそうなガラス張りの空間だが、今は離れた外灯の淡い光しかなく、蛍光灯の明るさに慣れた目には暗闇と大差なかった。
「本当に、孝平くん?」
 遠慮なく温室へと踏み込んでいく背中に、おそるおそる声をかける。
「さぁ?」
「眼鏡はどうしたの? それに……」
「眼鏡は壊れた。いや、正確には壊された、だな」
 口調は異なるけど、声は間違いなく孝平くんのものだ。
「見えるの?」
「まぁ、ぼんやりと」
 私も彼の後を追って温室に入る。植物の香りが濃い。
「みんな孝平くんのこと、心配していたよ」
「奈保子さんが探しに来てくれるとは思わなかった」
 急に彼が立ち止まった。私も足を止める。
「トイレにいくついでに……」
「だろうね」
 笑いを含んだその声は、私の心の奥のほうを削り取るような鋭さがあった。
 温室を一周すると、彼は急に上を見上げた。
「星が見える」
「えっ」
 つられて空を仰いだ私は、次の瞬間、冷たいドアに背を押しつけられていた。星の残像がまぶたの裏に煌めく。
 唇が重なったのだと気がついたときには、彼の柔らかい舌が私の唇をこじ開けようとしていた。
「な、な、何よ、これ」
「口止め」
「は?」
 耳のそばでダンと鉄製のドアが音を立てた。
「誰にも言わないって約束してよ」
「言わない……って何を?」
 彼の顔が再び接近する。逃げたくとも彼の腕が私の逃げ場を奪っていた。
「部屋を間違えたんだよ」
「……あ」
 恥ずかしそうに目をそらした彼の表情に釘づけになる。
「そこがコンパニオンの控室でさ。お姉さま方にいいように遊ばれてたわけ」
 ああ、なるほど。
 確かに彼はいかにもひ弱そうで、からかいたくなるような立ち居振る舞いをしていた。私はそれにイライラさせられたけど、世慣れした女性におもしろがられるのも無理はない。
 でも、と目の前の彼を見つめる。彼も私をまっすぐに見た。
「眼鏡、ないほうがいいよ」
 私は正直に言った。彼の目が少し細くなる。そしてもう一度唇が触れた。
「キスするのに邪魔だから?」
 彼が悪魔のように微笑んで言った。私も同じように笑う。
「それもあるけど、それだけじゃない」
「へぇ、それって褒め言葉?」
「……たぶん」
 孝平くんが嬉しそうな表情をした。まだ胸がドキドキしている。頬が熱いのはアルコールのせい?
 それとも――。
「ねぇ」
 コツンと額同士がぶつかる。
「このドア、開くと思う?」
 私は彼のきれいな瞳に視線だけでなく心までも吸い寄せられそうだった。
「今はまだ……開かない」
「じゃあ『いいよ』って言って」
 懇願するようなセリフに目を見開くと、彼はまぶたを閉じる。
「これから、ふたりきりのときは『なお』って呼ぶから」
 ああ、それ、いいかも。
 そう思った途端、ふふっと笑ってしまった。
「本当に、孝平くん?」
「さぁ?」
 彼もニッと笑う。
 まさかこんなふうにイレギュラーなハプニングで出会うとは思わなかったけど。
「でも俺、なおの冷たい視線も好きだから」
「……は?」
「そういうとろけそうな顔は、俺の前だけにしといて」
「なによ。そこ、キスマークついてるわよ!」
 焦って鎖骨のあたりを擦る彼の慌てた表情さえかわいく思えるなんて、私もどうかしている。でもかわいい年下の出現に、いや発見に、少しくらい浮かれてもいいよね。
 明日から始まる退屈じゃない毎日――。
 その予感ではしゃいだ気分の私は、彼の腕を強く引っ張って思い切り背伸びをすると、驚いた顔の彼にキスをした。
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