手の届く距離
「次は、広瀬さんから誘ってくれますか?」

「僕のタイミングでいいの?僕としてはこのまま帰したくなかったんだけど。今からでもいいよ」

肩越しに振り返った目は、少しも笑って見えなかった。

ふて腐れてるとか、からかってるとか、そんな可愛いものじゃない。

いつも上がっている口角が見えないと、こうも表情が違って見えるものか。

言われた言葉より、大人の余裕を崩さなかった広瀬さんの隠れた一面を見た気がして足が竦む。

考えたらカラオケでは一方的だったし、居酒屋でも強引だった。

基本的に、私の都合は考慮されてない。

「北村君?」

数歩先まで足を進めた広瀬さんが足を止めた私を振り返る。

その顔はいつもの穏やかな笑顔なのに、得体の知れない違和感が広がるのを止められない。

私の方に手を伸ばしてきた広瀬さんにどんな顔をしていいかわからず視線を落とすと、私の携帯が鳴った。

音に驚いて顔を上げると、広瀬さんの舌打ちと顔を歪むを見てしまう。

咄嗟に出る行動がその人本音だ。

動かない私に、「鳴ってるよ」と教えてくれる広瀬さんの取り繕われた笑顔は戸惑いしか生まなかった。

すみません、と断って電話の相手も確かめず通話を始める。

「もしもし」

電話は由香里からで、今取り込み中だから、と伝える間もなく取り留めないことを聞いて欲しいとだらだら話し始める。

由香里の事情を考慮すると、無下に切るわけにもいかず、時間が掛かりそうなことを覚悟して、外であることを伝えて家に帰ったらすぐ折り返すことを伝えた。

「電話は掛け直すのはいいとして、この後僕についてくるんじゃないのかい?」

電話を耳から離した瞬間、広瀬さんの不機嫌な声が向けられる。

事情も都合も聞かない広瀬さんとは時間を掛けた方がいいことを確信する。

決めたら肝も据わった。

嫌われても、ここは譲れない。

「少し難しい状態の子なので、急いで帰って話を聞いてあげたいと思います。申し訳ありません」

口調は敢えていつもより固くした。

精一杯体を折り曲げて謝罪する。

落ちてきた大きなため息は、私の決意を強くする。

取り繕っていた一面が剥がれたからといって、意外な一面を見たと喜ぶところかもしれないが、少なくとも今胸に残るのはがっかりしている自分。

初デートのイメージとは違ったが、これも経験。

「帰るんでしょう?行こう」

広瀬さんの手がやさしく肩に置かれ、はじかれるように顔を上げる。

まだ、始まったばかりなのだから、と自分を奮い立たせて、先を進む背中を追いかけた。
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