「会社をやめる?」

「……はい」

社長は応接セットの革張りのソファにお腹が大きめの身体を沈めると、ハンカチで額の汗を拭った。ここ最近の寒さに負けないように強めに入れられた暖房は汗っかきの社長には、居心地が悪いものらしい。

社長室の応接セットに座るなんて、就職活動の入社面接以来だった。ガラステーブルの上には昨夜の内に書いておいた退職願がしゃちほこばるように置かれていた。

社長は困ったようにため息をついて言った。

「それは急な話だねえ……」

「すいません」

私は恐縮して頭を下げた。

壺を弁償するために一度転職を考えたこともあったが、その時は迷った挙句に申し込みボタンを押し損ねた。

しかし、今回は違う。

今度こそ私は長年慣れ親しんだこの会社を辞める。

「桜木さんは良くやってくれていると思っていたのに、本当に残念だよ。次の勤務先は決まっているのかい?」

「いいえ。実は、会社勤めをする気はないんです。この際だから、自分のことを見つめ直してみようかと思って……」

吉池さんにもらった名刺に連絡すると、彼女の代理人と名乗る人が代わりに電話口に出た。

折り返しの電話は直ぐにやって来て、吉池さんはコーチの話を受けると言った私を歓迎してくれた。

過去が消せないのなら、歩み寄ればいい。辛い思い出ばかりを振り返るのではなく、楽しいこと、嬉しいことを積み重ねれば、辛い過去にも新たな価値が生まれるのではないだろうか。

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運命    年下 

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