恋するバンコク
「ちょっと! ねぇ!」
 タワンはどれだけ呼んでも一向に振り返らない。その代わりに手はしっかりと握られ、結はトランクを文字通り引きずるように歩いている。航空会社のグランドスタッフや清掃員が、なんだというようにこちらに視線をやっている。
 列を区切る鉄のポールにトランクの車輪が遮られて、立ち止まってしまう。振り返ったタワンが結より早くトランクの傍まで戻り、そのまま片手にトランクを引き上げる。もう片方の手は結の手を掴んだままだ。荷物を人質のように取られた結は、なす術もなくタワンに引かれていった。

 空港のロータリー前で拾ったタクシーが、簡単に結を元の場所へと連れ戻してしまった。つい数時間前に結が電話をした公衆電話を車窓から見つける。あ、と思っている間にタクシーはホテルと反対側のソイ(小道)に入る。やがてタクシーは一件のアパートへと入っていった。

 きれいなアパートだった。結が昔住んでいたコンドミニアムよりも広く、デザインも近代的。守衛が立つ磨かれた黒い塀を越えると、大きな噴水が中央に構えられたロータリーが見えてくる。アパートの前庭の芝はきれいに刈られ、裏手にテニスコートがあるのが見えた。

 ロータリーを進んでアパートの前にタクシーは停まる。運転手の手を借りることもなくトランクケースを地面に戻したタワンは、そのままさっさと建物の中へと入っていく。慌てて結もその後を追った。
 ホテルと同じように高い天井に、左手にはレセプションカウンターがあり、天井からオシャレな形の照明が吊るされている。並べられた革張りのソファに座って、数名のタイ人たちが穏やかに談笑していた。みんな見るからに品があって、身に着けているものもキラキラして高級そうだ。タラート(市場)で売ってるペラペラの布地の服なんて絶対着ません、という感じがした。タワンはそちらに目をくれることもなくロビーを突っ切ると、やや乱暴に見えるしぐさでエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターを待つ間も、タワンは一度もこちらを見ない。いい加減ここがどこか分かっている結は、小さな声で呼びかけた。
「タワン」
 想像よりはるかに弱々しくなったその声をかき消すかのように、ティン、と電子音とともにエレベーターが到着したことを告げてくる。結が躊躇していると、タワンは前を向いたままグイッと肩を掴んで結を箱へと押し込める。掴まれた掌は熱かった。それなのに冷たく見えるその横顔が、結を不安にさせた。

 鍵のほかに暗証番号を入力しないと開かない扉。タワンは相当セキュリティレベルの高い家に住んでいるらしい。だけどそのことになにも思う余裕もなく、緊張で手は冷たくなっていた。

 開いた扉の向こうは、何人で住んでるんだろう、と尋ねたくなるほど広かった。玄関マットに置かれている靴はタワンの物らしき革靴とサンダルが二足だけ。けれど部屋の奥行きは結の東京の部屋が二つ入るほどだ。磨かれて光る大理石の床が奥のベランダ、というよりバルコニーと呼んだほうが適切な面積のそこまで続いている。そう、ベランダにガラステーブルと長椅子は置けないはずだから、あれはバルコニーになるんだろう。
壁際に置かれた四人掛けの革張りの黒いソファに黒いローテーブル。床に直接置かれた大きなガラスの花瓶には、生花か造花か判断できない大輪の花が飾られている。壁にかけられている絵までハイセンスで、サワン・ファー・ホテルのデラックス・ツインルームを思い出した。

 大きな音を立ててタワンがトランクケースを玄関脇に置く。ぼんやりと部屋を見ていた結はその音ではっと振り返った。
「ユイ」
 低い声が結を動けなくする。こんなに広い部屋なのに、タワンは靴も脱がずに結の両脇の壁に手を突いた。
両腕に囲われて、逃げ場もない。山の上に来たように、酸素が薄く感じる。

「どうして逃げたの」

 結を覗き込む目は黒く光っていた。寄せられた眉は日本人より濃く、険しい顔をすれば凄みも増す。
 咄嗟に下を向くと、片方の手が離れて耳の下の窪みと顎に指がかかる。ぐい、と顔を上向けられる。
「タワン」
 ばくん、ばくんと心臓が跳ねる。自分は毛の生え揃ってない雛鳥で、彼は大きな手の中でいつでもひねり潰すことができる、そんな幻覚を覚えた。
 それなのに、目の前のタワンは結よりもっと苦しそうに顔を歪めて、耳の下から手を離すとぐっときつく抱き寄せてきた。タワンの熱に包まれて、頭の中が真っ白になる。息が耳元を掠める。
「間に合わないかと思った。僕がどんな気もちで空港まで行ったかわかる?」
 なにも言えず、目を伏せた。ふしぎな甘いにおい。これがこの人の、タワンのにおいなんだろうか。走ったのか、シャツの襟元が汗で少し湿っていた。唇を噛みしめる。
「でも、帰らないと」
 自分の行動を正当な物だと主張したくて、反射的に口にする。
「いつかは帰らないといけないんだよ。私は外国人なんだから」
 顔を上げたタワンの顔が近くて、びくりと心が揺れる。距離を取りたい。なのに真後ろが壁でそれもできない。

「帰さない」

 はっきり口にされたその言葉に、目を見張る。
「日本になんて、帰さない」
 身じろぎする間もなく、唇を奪われた。
 
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