恋するバンコク
現れた男たち
 朝目が覚めた時にタワンはもういなかった。仕事の性質上同じ時間に寝起きする方が少ないことはわかっていても、皺だけが残る片側のシーツを見た瞬間切なさが胸を締め付けた。
 かといって、二人並んで手を繋いで出勤なんてできるわけもない。当たり前だ。
 自分に言い聞かせて起き上がると、壁際にある鏡台に自分の姿が映って見えた。鏡の中の自分と目が合う。

 寝ぐせで絡まる髪が、一番上のボタンが開いているシャツにしどけなく垂れている。パジャマ代わりに借りたタワンのシャツは、ベッドにぺたりと座る結の太ももの際までをわずかに隠している。
白い首筋に、赤い印がひとつ点いていた。昨夜タワンが付けた印。思わず蚊を叩くようにベチッと首元を叩いて、そのまま体を伏せた。カーッと全身が熱くなる。

 やってしまった。

 自分を客観的に見た瞬間、こみ上げてきたのはそんな言葉だった。
 昨日のあれこれの場面が脳裏に蘇って、ギャーと心の中で叫ぶ。今さら恥ずかしくなっても、文句を言う相手もいない。
 それでも。
 無意識につかんでいたシーツをぎゅ、と握りしめる。顔を上げたら、頭に上っていた血がくらりと下がる気配。
 後悔してない。タワンと抱き合えたこと、嬉しかった。うれしい、と思えたことがうれしかった。

 私はまた恋をしている。できている。
 過去の恋愛というのは、女友達と酒の肴にするためにあるんだ。そう言い切ったアイスの言葉を思い出す。そう、美化したり傷ついたりしたけど、結局のところ答えはシンプルだ。

 私は失恋した。そうしてまた、たどり着いた。

 タワンでよかった、と思う。昨日のことを思いだして、知らず唇が笑みを象る。赤い印が点いている首筋を手でなぞって、そのまま体の線をゆるゆると撫でおろす。
 
 愛してもらえてよかったね。
 体にそっと語りかける。
 
 頬をなぞったら、キスを思い出して涙が滲んだ。
 慈しんでもらえること。慈しみたいと思うこと。
 世界中の恋人たちがそういう意味を込めて体を繋いでる。そして自分たちもまた、同じように思うから、触れ合えた。そのことがとても嬉しかった。
  


「サワディーカー!」
 カウンターの中でその日の荷物リストを見ていると、アイスが不自然なくらいの笑顔で胸の前で手を合わせた。結はあらかじめ作っておいた笑みが早くも崩れかけるのを感じながら、片手を上げた。
 アイスはさっと結の腕に手を巻き付けると捲し立てた。
「昨日帰らなかった理由を教えてくれるよね。ロッティ(渋滞)し過ぎて車中泊? イケメンファラン(欧米人)をナンパでもした? あ、わかった元彼と元鞘になったんでしょ!」
「アイス」
 腕を捕まれたまま苦笑する。おもいきり、からかわれてる。
「なーに?」
「連絡しないで、ごめんって」
 途端に、アイスはニッコリをニヤリに変えて結を見た。す、と結の首元に手を伸ばす。
「いい色だね、そのスカーフ」
 ぎくりと肩を強張らせる。着替えた時、首元の赤い印が制服で隠れない位置にあるとわかった。苦し紛れにホテルの土産物売り場で買ったタイシルクのスカーフ代は、あとで絶対タワンに支払わせようと決めている。
「なぁんで、こんなものつけてるのかな」
 アイスがスカーフを指先で弄んでニヤニヤと笑う。答えに窮していると、声がかかった。

「ユイ」
 胸がドッと強く鳴る。

「あ……」
 とっさになんと言っていいかわからず、口からはそんな掠れた声が漏れる。タワンは結たちの立つカウンターに片手を乗せて、こちらを窺うように控えめな笑みを見せていた。
 トン、と隣から肘をつつかれる。アイスが面白がるように、微かに顎をしゃくって結を促した。結は曖昧に笑い返してカウンターを出る。

「ユイ」
 タワンは結が近づくとホッとしたように笑いかけ、「ちょっと来て」と先に立って歩いた。いつも通り背筋の伸びた背中を、半ば夢心地で見つめる。今朝も完璧にセットされた髪型。昨夜くしゃりと乱れた髪の毛に手を伸ばしたことを思い出して、慌てて頭を振り払った。
 タワンが連れて来たのは中庭だった。二日前高志と来た中庭に、今朝はタワンと二人で立っている。ひと気のない庭の奥の方で、この間と同じように庭師が生垣に水をやっていた。

「今朝は一人にしてごめんね」
 言葉と同時に、タワンの両手がゆるりと腰に巻きついて結を抱きこむ。仕事中なのに。驚いてとっさに突っぱねるけど、タワンは意に介さないように腕を離そうとせず、真剣な顔で結を見下ろしている。
「体辛くない? 休んでもいいんだよ」
 言われた言葉にカーッと頬が熱くなった。
 なにを言ってるんだこの人は。
「大丈夫だよ!」
 恥ずかしくて、とっさに日本語が出る。
「それより、私の首に」
 制服で隠れない位置に付けられた印。文句を言おうと顔を上げれば、タワンが頬にそっと触れた。掌が、なにかを確かめるように優しく肌を撫でる。ぬくもりを多分に含んだ眼差しに、なにも言えなくなった。
 恋人同士になったんだ、このひとと。改めてそう思った。

 頬に手を添えたままタワンが屈みこむ。
 あぁ、もう。
 諦めたように心の内でつぶやいて、それでも目を閉じて受け入れる。
 唇がそっと重なった。
「おはようのキス」
 唇だけを離した、額と額が触れ合うほどの近い距離でタワンが小さく言う。タワンの後ろに見える空と生垣と屋台骨。ハッとしてタワンと自分の間に手を滑り込ませて隙間を作る。
「仕事場ですよ、支配人」
 わざとそんな言い方をして、心臓の音と熱を鎮めようとする。タワンはゆったり笑ったまま、
「支配人の前に、君の恋人だよ」
 さらりとそんなことを言って、結が平常心を取り戻すことに協力しない。怒ろうとした口は、途中で甘い苦笑に変わってしまう。
 高志は職場で触れ合うことをしなかった。エレベーターの前や階段なんかですれ違った時、話しかけることさえしてこなかった。彼はプライベートと仕事を分ける人なんだと自分に言い聞かせて、さみしさを抑えていた。だけど彼には別の意図があったことが、今ではもうわかっている。

 高志とは違う体への触り方。距離の取り方。ほぼ反射的に胸の内で比べてしまって、それでもう心が疼くことはない。そういう自分を確認したくて、比較してしまうのかもしれない。

 あたらしい恋を、している。

 結はそっと一歩近づいた。自分からタワンの手を取ると、喜ぶタワンがあっという間に結を抱きしめる。
 高志とはちがう匂いに包まれて、安心して深く息を吐く。
 その時、庭とつながっている館内の扉からアイスが飛び出てきた。
「支配人!」
 慌てたように駆けてくる、その顔に焦りが浮かんでいる。表情の意味を考えるより先にアイスは叫んだ。
「警察が来てる!」



 警察が来てる、なんていう呼び出し文句で職場に向かうこと、一生に何度あるんだろう。
 タワンの後に続いて足早にロビーへと向かいながら思っていた。
 午前中のロビーは人が多い。ちょうどツアーの旗を片手に持ったツアーコンダクターと、中国人団体客がぞろぞろと来ているところだった。ソファスペースでは英字新聞を読みながら欧米人の中年夫婦が寛いだ様子で座っている。彼らのすぐそばを、白い肌に金髪の髪を乱しながら小さな姉妹がチョロチョロ走り回っていた。少し離れたところでベビーカーを持ちながらスタッフと話している両親らしき人たち。ランプが点灯したエレベーターから日本人のビジネスマンとサウジアラビア系の家族が降りてくる。
 その中に、彼らはいた。

 ねずみ色の上下の制服に、同色の帽子。襟や胸元を飾るバッヂ。そろいの制服に身を包んだ男たちが三人、チェックインカウンターの前に辺りを見回しながら立っている。リゾートらしいワンピースやリラックスしたTシャツスタイルが多い中で、彼らの重々しい色は、その存在感とともに明らかに浮いていた。皆なにごとかというように彼らに視線を向けている。
 男たちはこちらを見ると互いに顔を見合わせ、頷き合うとタワンのところへとやってきた。カツカツという革靴の音がやけに耳に響く。クリスマスツリーの前で写真を撮られていた子どもが、興味津々に近づこうとするのを親に止められている。

「プワッラオペンタンルア(警察だ)」
 緩やかに流れるホリデーソングの中、男の言葉がやけに響いた。穏やかに笑い合っていたお客たちが訝しげに顔を見交わす。
「ペンヤンガイ?(どうしました?)」
 タワンは駅までの道のりを聞いてきたお客に対するように、柔らかな笑みを浮かべて尋ねた。突然の訪問者にも慌てずに、あくまで穏やかだ。その様子を見て困惑したように立っていたスタッフたちが、ホッとしたように表情を緩めたのがわかった。
 男たちはまずタワンを見て、次いで隣に立つ結を見た。タワンが気づいて、もう行っていいよ、というように結に目で促す。頷いて下がりかけたところで、男が口を開いた。
「ここにサノユイという日本人はいるか?」

 ――――え?

 タワンの笑みが消える。
「このホテルに不法労働者がいると、大使館から通報を受けたのだ」
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