恋するバンコク
素敵なこと
 カウンターに戻ると、アイスが心配そうに尋ねてきた。
「大丈夫だった?」
 周りのスタッフも、作業しながらこちらを窺うように見ている。結は曖昧に笑って頷いた。
ロビーを見渡すと、騒動の最中も、フロアはいつもの顔で客を出迎えていた。ソファに座ってスマホをする女性やプールに行く格好で歩く家族たち。喧騒も混乱もない様子に、ホッと息をつく。
 タワンを目で探す。ロビーに入ってすぐ別れた彼は、バックヤードに行ったのか表にはいないようだった。
 それでも、同じ場所に立っていられることがうれしい。
 一瞬でも奪われそうになった環境は、そうなったことで得難いものだと改めて気づかされた。

 欧米人の家族が大きなトランクケースを引いてくる。それを笑顔で受け取りながら、番号札を手渡す。仕事をはじめながら、さっき芽生えた想いを心の中で反芻した。

 ここにいたい。
 ずっとここで働きたい。

「ねぇアイス」
 お客を見送って、何気ない口調で尋ねる。
「ここで正式に働くことって、できるのかな」
 アイスがアーモンド形の目を見開いた。
「ユイ、それって」
 結は浅く、けれどしっかり頷く。
「私、この国に住みたい」

 アイスが結の真意を推し量るように眉間に浅く皺を寄せる。
「本気?」
 黙ってうなずくと、アイスはじっと結を見た。

 もう二度と離れたくないと思った。
タワンと一緒に、生きていきたい。
  
 自分が一番大事だと思うものだけを大切にすればいいんだ

 タワンの言葉がくるくると胸の中を回る。今胸に灯るこの熱を掴んでおきたい、と思った。
 臆病な自分が逃げ腰にならないうちに。
 私の一番大事なものを、それだけを大切にしたい。

 アイスが口を開きかけて、
「あ」
 視線を遠くに向けると、小さな声でつぶやいた。
 アイスの視線の先を振り返る。まばたきを一つした。
 チェックインカウンターの脇、スタッフ用通用口の扉を背に立つ、壮年の男性。
 パラハーンだった。

 ポロシャツにチノパンという至って普通の格好。それなのにどこか威厳のようなもをの感じるのは、彼がこのホテルの主だと知ったせいだろうか。少し離れたところに立つホテルマンたちが、こぞって緊張した顔でパラハーンを見つめている。
 パラハーンの表情は、この間とは別人のように険しかった。辺りをぐるりと見渡して、結に目を留めると指先を短く動かした。
 
 こちらへ来なさい。
 
 無言の命令を受けて、結はぎこちなく頷いた。
警官の次は恋人の父親だ。緊張の連続に、小さくため息がこぼれた。

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