恋するバンコク
遠く離れて
 さむい。
 吐いた息が湯気のように漂って水色の空に消えていくのを、結はふしぎな気分で見つめた。
 日本に帰って来て二週間が経った。バンコクと二十度以上ちがう冬の中に送り返された体は、気温差をまだ受け入れられない。そんな体質でもなかったのに時おり偏頭痛に悩まされていた。
 今も右のこめかみがズキズキと疼く気配に耐えながら、コンビニの入り口脇に立てかけられたラックから求人誌を手に取った。すぐ隣のごみ箱に、サラリーマンが飲み干したペットボトルを捨てようとしたので少しだけ右にずれる。

「そんでさー、その後行った店で」
 大学生くらいの男の二人組が、ガヤガヤと騒ぎながら店を出てきた。一瞬ふわんと感じた暖房の温もりは、けれど閉じた自動扉の向こうへとすみやかに消えていく。首元のマフラーを少し上に持ち上げる。 
「チョト、スミマセン」
 コンビニの店員がごみ箱の扉を開けると、中身をがさがさ、とまとめていた。日本人より浅黒い肌のその店員を、無意識にじっと見る。店員が動くたびに見え隠れするネームプレートに、フィン、とだけ書いてある。
 あまりにもじっと眺めていたからだろうか、ごみ袋を掴んだ店員がこっちを振り返った。丸い二重の目は鹿のようにくるるとしていた。

 似てない。肌の色が同じでも、やっぱりちがう。

 同時にそれはそうか、と思う。肌の色や人種でひとくくりに考えるなんて、あまりにも馬鹿げている。
 指先に力がこもって、握ったままの求人誌がカサリと乾いた音を立てた。結は諦めたような、それでいてどこか慈愛を含んだような眼差しを伏せて、求人誌を見下ろす。薄い冊子をパラリ、と捲ると後方からにゅっと手が伸びてきた。

「すみません」

 その人は結の肩の脇から、ラックに並ぶ求人誌に手を伸ばした。体をずらしながら半ば無意識に後ろを振り返って、そのまま驚きに固まる。
「……高志?」
 結の手にあるものと同じ求人誌を掴んだ手が、ピタリと止まる。こちらを向いたその顔は、やっぱり高志だった。
 高志は半歩下がると結をまじまじと見た。
「結? こんなとこでなにしてるんだ」
 それはこっちの台詞だ。高志の格好を目で一巡する。深緑色のジャンパーにジーンズ。無職の結とちがって、彼はサラリーマンのはずなのに。平日のこんな時間に、一体何をしてるんだろう。そう思いながら、高志が握る求人誌に目が吸い寄せられる。
 視線の先に気づいたのか、高志は苦笑して求人誌をこちらに見せた。
「やめたんだ、会社」
 思いがけない言葉に目を丸くする。高志は首の後ろに手をあてて、
「瞳に振られたよ」
 なんとか笑おうとして失敗してる、そんな痛々しい顔をみせた。なんと言っていいかわからず、黙って元彼を見つめる。
 そりゃそうだろうと思う一方で、妙に胸が疼いた。ぐにゃりとかき混ぜられたような、この気もちはなんだろう。

「俺、なんかすごい馬鹿だったよなぁ」
 細い声で高志は言って、冊子を持ってないほうの手顔を覆った。
 馬鹿だった、と否定したのはおそらく結といた時間のことだ。結本人にその気もちをぶつけることがいかに失礼か、傷心中のこの男は気づいてない。
 ま、いいか。
 淡々と思う。もう高志の言葉には傷つかない。心を預けてない人の言葉は、こんなにもすっと意識を通り過ぎていく。
 だから淡々と答えた。
「そうだね」
 一瞬の間を置いて、馬鹿だったね、と念を押すように付け足す。片手で顔を抑えたまま、高志は長い息を吐いた。
 それを合図のように顔を覆っていた片手を下ろす。その目は赤く潤んでいた。意外と打たれ弱いようだ。
 そんな自分をごまかしたいのか、高志は話題を変えてきた。
「でも、どうしてここにいるんだ? 結はあのままバンコクにいると思ってたけど」
 ピクリ、と心の奥が震える。冷えた指先をポケットに潜り込ませた。
「あいつは元気なのか? 支配人の」
 キィッ。駐車場の脇に小学生が自転車を止めた。その光景に興味があるとでもいうように、視線をそちらに向ける。
「知らない」
 高志が眉をぐっと寄せた。
「なんでだよ。連絡取ってるんだろ」
 黙って首を横に振る。自転車を止めた小学生がコンビニの自動扉を開けて、また温かな空気が鼻先と頬を撫でる。
「とってないよ」
 最小限の答えに、高志はやけに食い下がった。
「なんでだ? あの時言ってたじゃないか、離れなくてよかったって」
「やめて」
 意図せず大きな声が出た。冷えた指先をポケットの中で握りこむ。
「いいでしょなんでも」
「そりゃ、そうだけど」
 高志は言葉を選ぶように区切ると、
「だけど結、幸せそうだったじゃないか」
 ずくり。胸の奥が痛む。
そんなふうになれば、心は簡単に二週間前のあの日にもどってしまう。そのことがわかってるから、結は顔を背けた。
「なぁ、俺たちのせいなのか? 警官なんか来て、迷惑かけたから」
 ぐっと唇を噛む。もし、なんて、あれから何度も考えた。

 もし、警察が来なかったら。
 もし、高志たちがホテルに来なかったら。

 だけどちがう、そういうことじゃない。結は、タワンが大切にするものを同じくらい大切に考えられなかったから。
 だからそんなもし、の話はいらないし、高志に心配そうに見られたくもない。
「ちがうよ」
 それだけ言うのがやっとだった。胸が痛む。その場で呻いてうずくまりたくなるような、重苦しい痛み。
 それなのに、そうしてるうちには自分はタワンを忘れないだなんて、倒錯的な喜びを少しだけ感じている。馬鹿だ。こんなの抱えて、これからどうするっていうんだろう。

 そうか、と高志は小さく頷いて下を向いた。
「なんか、残念だよ。俺がこんなこと言う資格ないけど、結には幸せになってほしかったから」
 尖った心が言葉を押し返そうとして、その後すぐに、そうか、と納得した。
 瞳に振られたと聞いて、胸が疼いた理由がわかった。
 私も、高志に幸せになってほしいと思ってたんだ。
 ひどい男なんだけど、それでも一緒にいる間は楽しかった。その時なりの幸せがあった。
 不幸になってほしいなんて、結局一度も思ってない。

「私も、瞳さんと幸せになってほしいと思ってたよ」
 瞳がいなくなった時、心配して焦る高志の表情は見たことがないものだった。泣いた瞳を抱きしめて、許しを乞う姿も。
 それがなんだと、許せない瞳の気もちはわかる。結が乗り越えているのはきっと、もう高志を愛してないから。
 だとすれば許せない瞳の気もちは推し量ることもできそうだけど、それを高志に言う必要はないだろう。その役目は結じゃないし、なにより瞳が望んでない。

 ほんとにこのひと、馬鹿だったんだなぁ。
 改めて高志を見れば、目元の隈はこの間よりずっと濃くなっている。こけた頬から顎にかけて剃り残した髭がまばらに散っていた。履いてるスニーカーはつまさきの部分が黒く汚れて、紐もすり切れている。こんな靴で外に出るひとじゃなかったのに。
 ごくん、と高志の喉が動いた。タワンより白目の部分が多い目が、またたきを繰り返す。
「俺もそう思う」
 自分を奮い立たせるように、高志が息を吸いこむ。がさり。力をこめたのか、握っていた求人誌が音を立てる。
 どこに掛かっているのかわからない言葉に、結は問うように眉を寄せる。高志は結と視線を合わせることなく、言葉にしてたしかめるように言った。
「俺も、あいつと幸せになりたい。やっぱりあいつじゃなきゃだめなんだ」
 こんなに熱い台詞を言うような男だったろうか。この顔も、二年間で見ることなかった表情だ。
 息を吐く高志の背筋が伸びる。ふいに、会社で上役相手にプレゼンをこなしていたいつかの姿を思い出した。
「しつこいって呆れられてもいい。瞳にもう一度会いに行く。土下座してでも、許してもらう」
 言葉が呼び水になるように、目に力が宿っていく。その勢いのままにジャンパーのポケットからスマホを取り出すと、なにか操作をした後それを耳にあてた。
「……つながらない」
 数秒の後、低い声でそう呟く。着信拒否という単語が頭をよぎったけれど、口に出すのは憚られた。高志はスマホを耳から離し、再度かけなおしている。

 うらやましいな。
 ぼう、と声が心の奥でささやく。
 がむしゃらに、好きな人へと向かっていく高志がうらやましい。
 自分もあのとき、そういう選択もできたんだ。頭で抑えつける間もなく、考えがポロリと零れ落ちる。
 日が経てば経つほど、その思いが波のように結を翻弄する。
 自分から手を離した。そのことに胸が焼けるような思いがして、その後すぐに、あれでよかったんだ、と自分を宥める。
 それなのに、すぐ後にまた思うのだ。
 ほんとうによかったの、と。
 こんな悲しいことに、これからも耐えていけるの、と。
「LINEつながった」
 高志が嬉しそうな声を出す。ぼんやり思考の淵を漂っていた結はのろのろと顔を上げた。
 スマホを耳にあてたまま、高志は結に言った。
「俺もがんばるから、結もがんばれよ」
 その言葉に目の奥がツンとする。
 がんばれって、なにをがんばればいいのよ。
 だってもう、選んでしまったのに。
 
 君はひどい人だな

 そう言ったタワンの顔が今もずっと忘れられない。
「瞳?」
 呼び出し音が途切れたのか、高志がおずおずと名前を口にする。その顔がぎこちなく強張っている。
「今どこ? 話したいことが――待って、切らないでくれ」
 懇願するように高志は言った。悲痛な口調と顔に、コンビニに入ろうとした女子高生の集団が振り返って、直後ニヤニヤと笑い合う。どう見ても、振られた男が恋人に追いすがる電話をかけているようにしか見えないし、実際その通りだ。
 若者たちの視線を気にも留めず、高志は通話口で言い募る。そして唐突に大声を出した。
「は? 本当なのか。――おい!」
 そこで言葉を区切って、耳から離したスマホを呆けた顔で見る。通話の終了画面が表示されているのが横から見えた。
「まさか、うそだろ」
 スマホを見ながら高志が呟く。
「どうしたの」 
 高志はのろのろと結を見上げた。なぜだか、とても困惑した顔で。
「あいつ、言ってたんだ。……支配人と、付き合うことになったって」
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