恋するバンコク
 お客は世界中からあらゆる飛行機でやってくる。
 到着時間も出発時間もバラバラで、朝早くから深夜までロビーにお客は途切れることはなかった。だから一日の大半は荷物を引き渡す専用のカウンターにいるけれど、時々は向かいにあるサービスカウンターに呼ばれることもあった。そんなときは大抵日本人客がいるから、カウンターで日本語マップを広げて、ここに日系の旅行会社がありますよとか、ここに有名な雑貨屋さんがありますよなんて話をした。

 流行りの女子会プランで来た女子大生らしい二人組の女の子に、カウンターの端に置いているラックからチラシを取り出してみせる。
「こちらのプロモーションチケットをお使いいただくと、当ホテルのスパが」
 二十パーセント引きになります、と続く言葉は、女の子たちがとまどったように顔を見合わせた、その表情に止められた。
「お客様?」
 あのぉ、と女の子の一人が笑ってるような、困っているような顔のまま言った。
「これ、なんですか?」
 笑顔が引きつるのがわかる。
結のななめ後ろに張り付いて、日本語マップを後ろから覗き込むようにしているテレビカメラと数名のスタッフ。
「あ、全然気にしないでください。空気みたいなもんだと思ってもらえれば」
 カメラマンの隣で風間が笑って言った。そのすぐ後に誰でも知ってるバラエティー番組の名前を口にすれば、女の子たちもまんざらでも無さそうに笑いあう。
 
 カメラが後ろから撮っていてくれてよかった。今上手に笑えてる自信がない。
 チラ、と視界の隅に現場監督のように両腕を組んでこちらをじっと見るタワンが見えた。
 はぁ、と重い息を吐いた。

 その日は一日が終わるのがずいぶん長く感じた。結の勤務時間は基本的に早番か中番で、八時を過ぎることはない。それなのに深夜近くまで働いた後のように疲弊しているのは、大名行列のようにクルーたちが後ろを張りついていた所為だろう。
「ありがとね、良い画撮らせてもらったよ」
 番組制作スタッフというのはどうしてこうもエネルギッシュなんだろう。風間はグッタリしている結の肩をバンバンと太い指で叩くと、放送日を口にしてバタバタと去っていった。
「ユイ」
 声に振り返る。少し固い表情をしたタワンが立っていた。目で促がされて、スタッフ用通用口へと向かう。

「ダイマイ?(大丈夫?)」
 顔に浮かぶ疲労の色を見たのか、給湯室に置いてあるスタッフ用の冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを渡してくれる。甘さが疲れた体に心地良かった。顔を上げて笑顔を作ってみせた。
「ん、大丈夫」
 壁にもたれかかって首を鳴らす。荷物の持ちすぎで肩と腰が強張っている。日本で仕事をしていたときはパソコンの使いすぎで目や肩が痛くなったけど、これは純粋な筋肉疲労だ。置かれている環境のあまりのちがいに、ふっと笑い出しそうになる。

「ねぇ、無理に取材を受けなくてもよかったんだよ」
 振り返ると、心配してるような、どこか苛立っているような黒い目と目が合う。そんな表情をすれば、いつも支配人として落ち着いている彼の幼い一面を見たようで、口元に別の種類の笑みが生まれた。
「あら、私目立つことは嫌いじゃないのよ」
「ゴーホッ(嘘つき)」
 そう言って、タワンも同じように壁にもたれかかる。ひと一人分、にはやや狭い。子ども一人分くらいの距離。遠すぎず、けれど触れ合う心配のない距離は妙に心地良かった。

「ねぇユイ」
 いつもと同じ、柔らかな声。近くで聞いても煩く聞こえない絶妙のヴォリュームを彼は心得ている。アライ。見たまま尋ねる。
「どうしてバンコクに来たの?」
 視線だけで振り向くと、タワンは顔ごとこちらをまっすぐ見つめていた。見つめあう前に、慌てて視線を前にもどす。
「言ったでしょ、住んでる場所を、見てみたくなったの」
「タンマイ?」
 タンマイ――どうして? なんて聞かないでほしい。結にだってよくわからないのだ。

 ぽん、と衝動的に飛び出した。空気が濁ったように淀んでいたあの部屋に、これ以上いたくなくて。
 もうなんにもない。仕事も、恋人も。
 わかっている。本当はこんなところで「企業インターンシップのようなもの」をやってる場合じゃない。結がこうしている間にも、来月分の家賃は自動的に引き落とされてしまう。
 動き出さないといけない時期はやってくる。いつまでもこうやって逃げてても始まらないのだ。

 びくっと肩が大きく揺れた。意識せずだらりとさげていた左手を、タワンが握ってきた。
「君さえよければ、ここにずっといてもいいんだよ」
 真摯な目と顔でそんなことを言う。やさしくて甘くて――現実的ではない言葉。繋いだ手を握り返すこともできず、曖昧に笑みを返した。

 タワンは黙って結を見ていた。いつも微笑みを残しているような眼差しに、今はそれがない。真剣な目。競合ホテルのメニューを見ているときのような。
 つられるように、自分の唇の端に乗せていた笑みも消えていく。カフェオレ色の肌におさまる、結のそれよりも形が丸い目。いつも濡れたように光って見えるのは、この国の人が魅せるエキゾチックな魅力のひとつだ。だけどそれが今はやけに結を落ち着かなくさせた。

カフェオレ色の指が、結の白い指を一本一本絡めとるように繋ぐ。ぎくりと体が強張って、なにか恐いものでも見るようにタワンの手の中にある自分の手を見つめた。
 指の側面を撫でるように滑っていく指先。まるで愛撫のようにゆっくりとした触れ方を直視して、耳から喉のあたりまでがぐんと熱をもつ。
 
子ども一人分あったはずの隙間は、いつの間にかなくなっていた。タワンのシャツの影までしっかりと見える距離。襟元あたりから視線をはずすことができない。顔も、繋がれたままの手も見れなかった。

 なんでこんなことされてるんだろう。さっきまで、一瞬前まで自分とタワンはもっと他の緩やかな関係だったはずなのに。心臓がうるさいくらい大きく鳴る。その音が聞こえているかのように、グッと握りしめる手の力が強さを増した。

 大きな声が聞こえたのはその時だ。
「ユイいたー!」
 声に弾かれたように、手を振り払う。肩甲骨のあたりから、いっきに汗が吹き出した。
 アイスが走り寄ってくる。
「あのさ、先帰るんだったら冷蔵庫のケーキ」
 近づいてきたアイスは、バックヤードに立っている支配人を見て驚いたように目を丸くした。
「あ、なんか話し中?」
 そう言って後退しようとするアイスの腕を、慌てて掴んで引き止める。
「もう終わったところだから! 大丈夫」
 失礼します、おもわず日本語でそう言って、アイスを引っぱって給湯室を後にした。

「やっぱり付き合ってるんでしょ?」
化粧を落とした肌に真っ白なスパマスクを貼り付けたアイスが尋ねる。タイ人の美の基準は肌が白いことだそうで、アイスも年頃の女の子らしく美白の研究に余念がなかった。
 足を投げ出して座ったベッドの上で、枕をクッションのように口元に押し付けて結は答えた。
「だから、付き合ってないし。付き合う気もないし」
「だってイチャイチャしてたじゃん」
「してない!」
「いーやしてたね。空気でわかるんだ私は」
 スパマスクの下、自信に満ちたようにアイスが眉を上げる。黙っている結に畳み掛けるように、
「なんで? いいじゃん支配人。かっこいいし、お金持ちだしさ」
「そういう問題じゃないでしょ」
 げんなりした口調で言えば、嘘でしょ、とアイスが叫ぶ。その拍子にマスクがよれて、慌てて皺を伸ばしたアイスは結に向き直った。
「他にどんな問題があるのよ。かっこよくてお金持ちで、浮気やDVの心配もなさそう。おっかないママが付いてるか……これは要確認だけど。あとこれ以上なにを望むの?」
 アイスの言い方に頬が緩むのを堪えながら、
「そういうわけじゃないよ」
 ベッドの背もたれに預けていた背中をずるずると落としていき、べたりとシーツにくっ付ける。
「ただ、もう当分、そういうのはいいかなぁって思っちゃだめかな?」
 なんていうの、命の洗濯みたいな。どこかで聞いたフレーズを口にすると、スパッと言われる。
「駄目に決まってるでしょ。結いくつ?」
「二十五、だけど」
 知ってるくせに、とジロッと年下の女友達を見る。アイスは怯むことなく結のベッドに乗り上げると息巻いた。
「二十五歳なんて、自分より若い子が二十四パターンもいるってことなんだよ。焦らないでどうするの? 恋愛にも賞味期限があるんだって、ママがよく言ってたんだから」
 二十四パターンって、赤ん坊まで数に入れるのか。こちらを覗きこむアイスのスパマスクは、重力に従って端がぺろりと剥がれている。手を伸ばして貼り付けてやりながら、
「そんなこと言って、アイスはどうなの。二十一パターンのライバルを、当然蹴落としてるんでしょうね?」
 ニヤリと笑ってやると、マスク越しに不敵な笑みを浮かべて友だちは言った。
「もちろんよ。アメニティと同じ。在庫は多いほうが良いと思わない?」
 明日も仕事なのはどちらも同じなのに、その日はくだらない話をして夜中まで過ごした。そのなかで今まで誰にも言えなかった、高志のことも話す。泣かなかったし、声も震えなかった。過去の恋愛というのは、女友達と酒の肴にするためにあるんだ、とアイスが笑い飛ばしたからかもしれない。

 薄紫色の空を窓から見つめながら、ひさしぶりに口にした恋の話が、自分を傷つけなかったことにほっとしていた。隣でクークーと寝息を立てるアイスのブランケットをベッド下から回収してやりながら、ふしぎと満ち足りた思いに笑みが浮かんだ。
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