元教え子は現上司
夏の日のこと
 教師を辞めた後、碧は紅林学院で国語の講師になった。

 春が来れば新学年にあがった子どもたちが体験講座に加入し、夏が来れば夏期講習がはじまる。夏が終われば本格的な受験シーズンになる。カレンダー通りにイベントが進む塾講師の仕事はある意味とてもシンプルで、余計なことを考えずに済んだ。日々はめまぐるしく過ぎていった。

 講師をはじめて七年目。三十歳になったばかりの夏だった。講習が行われる一番大きな教室の、教壇ではなく生徒が座るほうの席にばらばらと講師たちが座っていく。碧も適当な席に腰掛けた。

「今年も来たねぇ、この時期が」
 隣に座った同僚の男が苦笑しながら手元の冊子をぱらぱらとめくる。

 紅林学院 夏合宿進行表

 冊子にはそう書かれていた。

「今年は何人集まったんだろう」
 碧は冊子をめくりながら呟いた。前に座っていた先輩の女講師が振り返る。
「去年より増えて、千人くらいって言うわよ。また宿の人に怒られなきゃいいけどね、騒ぎ過ぎって」
「それより俺、徹夜に耐えられるかなぁ。年々キツくなってきてんすよ」
 同僚が憂鬱そうなため息をついて、先輩も「同感」と頷く。碧は黙って冊子に目を通していった。

 紅林学院が開催する夏合宿は年間行事の一つで、夏休みに三泊四日で開催されていた。全国に散らばっている紅林学院の校舎の生徒が一堂に会して行う合宿は、講師たちにとって夏の風物詩と言える大きなイベントだった。

「あっちーなぁ、説明まだかな」

 同僚が冊子で顔を扇いでぼやく。同じようにしてバタバタと風を起こしている講師は他にも数名いた。いつも教室内は冷房がついているのに、生徒がいないから切ってあるようだった。動いてない業務用の冷房を見上げながら、碧はこめかみに滲んだ汗を拭った。

「みなさんお疲れさまです」

 声と共に、教室のドアが開けられた。塾長が入ってくる。その後ろに、見慣れない男性がいた。同い歳くらいだろうか。

 塾長は碧たちをチラッと一瞥すると、そそくさとドア脇に取り付けられた冷房スイッチの扉を開けた。ほどなくして、ブォォと冷風が入ってくる音がした。ふぅとおもわず顔を上向けて冷気を浴びながら、スーツの男性を見る。この暑さでも汗ひとつかいてない。めがねの向こうの目が涼やかだった。

 塾長がよく通る声で言った。
「今年の夏合宿は例年より生徒の参加率が高く、これに伴い本部のスタッフの方々にも合宿に同行してもらうことになりました」
 碧の座る椅子の対岸で、若手の女性講師同士が顔を見合わせてなにやら楽しそうに囁きあった。

 校舎スタッフと本部スタッフの交流はほとんどない。碧たちと本部の社員たちは待遇面でかなり開きがあり、年収だってケタがひとつちがうらしいと噂されている。エリートとの出会いに期待してるらしい彼女たちを、ぼんやりと見る。

 塾長の隣に立つ男が一歩前に出た。
「はじめまして。本社スタッフの小川といいます。よろしくおねがいします」
 そう言って笑うと、めがねの向こうの目がスッと細まって糸のようになった。

 ひとのよさそうな顔だな。

 それが小川の第一印象だった。
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