あ。
 夏帆は小さく声をあげた。

 昨日の二日酔いと暑さで何も受け付けない胃をもてあまして、昼休みなのにご飯を食べる気になれなかった。喫茶店に入って微妙に高いアイスティーを飲むのも癪なので、会社の近くにある公園に足を運んでみる。どこにこんなにいたんだろうというくらい、蝉の鳴き声がした。

 自販機でミネラルウォーターを買ってベンチに座る。頭上の木々がつくる木陰が気もちよかった。仕事中だということを忘れそうになる。

 音楽が流れてきたのはそのときだった。うららかな公園には似合わない、リズムの速い洋楽。音のするほうに目をやった夏帆は、おもわず声をあげた。

 あの子。

 夏帆の座る数メートル先で、昨夜の少年が踊っていた。その場で全力疾走するような早い動き、あれは。

 ストリートダンスだ。
 めまぐるしく動く手足。と思えばその一瞬後、指先が空中を指したままピタリと停止する。また動き始める。今度はもっと早く。
 
 縮まる。跳ぶ。回る。曲がる腕は線か直角。動きにカーブがない。ロボットのように、ブレのない正確な動き。

 すごい。

 ストリートダンスを見たのは初めてじゃなかった。テレビでもやってるし、学生時代に文化祭で同級生が踊るのを見たこともある。だけどそれとは迫力が全然違う。
 何より魅了されたのはその表情だった。

 なんて楽しそうに踊るんだろう。

 蝉の鳴き声とよく知らない外国の曲が混ざり合う。少年がステップを踏む音。そこに自分の鼓動が、さっきより大きくなって重なってることに気づいたのはもう少し後だった。
 やがて曲が途切れて、ふっと夢から覚めたような顔で少年がぼんやりと宙を見る。夏帆の喉の奥がごくりと鳴る。蝉の声がふたたび聞こえ始めた。
 少年の目がゆっくりと焦点を取り戻し、ふっとこちらを見る。目が合った。

 少年の名前は悠樹といった。夏帆の隣に座って、夏帆が持て余していたミネラルウォーターをごくごくと飲む。汗が首筋をつたっていって、長い前髪の後ろから日差しが零れていく。なんだか絵になる光景だった。
 悠樹はダンススクールに行く途中だったという。
「今から踊りに行くのに練習してるの」
 驚いて尋ねると、なんでもないことのように少年は頷いた。
「だって時間もったいないじゃん。せっかく夏休みなんだ、毎日練習したって足りないよ」
 声変わりはしてるんだろうけど、まだ少し高い声。いくつなの、と尋ねると十六だという。おもわずベンチの背もたれによりかかった。若さが太陽光並みに眩しい。
「え、でもあそこ一人暮らし用のアパートだよね? 一人で住んでるの」
 初対面なのに詮索しすぎだろうか。そう思いながらも止まらなかった。少年はすでに、じっとしてるのに耐えられなくなってきたとばかりにベンチの上で体をもぞもぞ動かしている。
「うち、田舎だから。でもどうしてもスクール行きたくて」
 後から知ることになるけど、悠樹の通ってるダンススクールにはその業界で有名なダンサーが振付師をしているらしく、悠樹はそのひとに教えてもらうためだけに一人で上京してきたらしい。

「そんなに好きなんだ」
 少年の情熱に気圧されて、両手の指先同士を意味なくなでる。二週間前につけたネイルが剥げていることが妙に恥ずかしくなって、爪の先で隠す。
「好きじゃない」
 予想外のはっきりとした言い方に、ふっと顔を上げる。熱を孕んだ熱い風が、少年の前髪をふっと持ち上げた。

「俺はダンサーになる」

 少年はそう言った。なりたいではなく、なる。ゆるぎない眼差しに、息がくっと止まった。

 それから昼休みに公園に行くと、悠樹はいつも決まって踊っていた。いつしか踊る悠樹を見ながらお弁当を食べるのが習慣になり、その夏が終わる頃には悠樹の分もお弁当を持って行くようになっていた。
 隣で気もちいいほどバクバクと弁当を食べる少年を見つめて、そっと息を詰める。夏の間に悠樹の肌は真っ黒に焼け、夏帆の心にもチリチリとした焦げ跡を残していた。

 だけどどうにもならない。だって十歳も下なのだ。
 夏帆が四十で悠樹が三十だったら良かったかもしれない。だけど夏帆は二十六で、悠樹はまだ十六歳なのだ。十六歳。記憶をたどってみても、その時の自分は曇に覆われた太陽のように、断片的にしかその姿を思い出せない。

 きっと弟ができたような気になって、浮かれてるだけなんだ。
 たびたび自分にそう言い聞かせる。ひとりっ子の夏帆は兄弟に憧れていた。自分を夏帆さんと呼ぶきれいな目をした男の子が、めずらしいだけ。だけ、だけ。
 ミニトマトと一緒に、気もちを咀嚼する。ついビタミンやたんぱく質を考えて弁当を作るようになっていた。急に毎朝台所に立つようになった娘をふしぎそうに見る母の顔がちらりと浮かぶ。

 二人の関係に変化があったのは、夏が終わって台風の季節になった頃だった。夏休みが終わった悠樹が公園に顔を出さなくなり、夏帆も連日の雨で公園に行くのをやめていた。というより、悠樹のいない公園なんて行っても意味がなかった。

 やばいな私、いろいろ。

 滝のような雨の中、ビニール傘越しに灰色の雲を見ながら歩いていると、いつだったか交換したきり一度も連絡してないアドレスからメールが来た。ふしぎな英語の組み合わせのアドレスは、彼の好きなダンサーの名前だという。

 会いたい

 それだけ書いてあった。
 元気? とか久しぶりだね、とか今どこ? とかは無い、簡潔な文章。ダンサーになる、と言ったときのようなまっすぐな表現。指先から傘が離れ、アスファルトに転がった。横殴りの雨が頭から降ってきても、冷たさは感じなかった。
 あの日のようにドンドンと叩かなくても、震える手でインタフォンを鳴らしたドアはすぐに開いた。びしょびしょの夏帆に驚いた様子も見せず、ただおもいきり抱きしめられた。その熱さに朦朧となる。バタンッと乱暴に閉じられたドア。はじまりの音だった。

 会いたかった、と彼は言った。
「会いたくて死にそうだった」
 嘘、と口の中で呟く。だって公園に来なかったじゃない。
「行ったよ、毎日行ってた」
 また嘘、と返そうとする前に唇を塞がれる。キスされてる。頭の中が白くなっていく。
「ゆう、き」
 展開に頭が着いていかない。こうなることを予想しなかったわけじゃないのに。 

 どうしよう。どうしよう。

 長いキスが終わって、悠樹が額同士を合わせたまま夏帆を見つめた。距離が近すぎて、目しか見えない。赤い顔でぼうっとなっている自分の姿さえ瞳越しに見えそうだった。

「夏帆が好きだ」

 その瞬間、迷いもとまどいも消えた。消えてしまった。悠樹の首の後ろに両腕を巻きつける。
 恋だ、とおもった。これが恋じゃなくてなんなんだろう。
 
 びしょびしょの体のまま、抱きかかえられて部屋に入る。はじめて見る悠樹の部屋をよく観察する間もなく、濡れたシャツを引き剥がされた。寒さとは別の理由で、夏帆の体は震えていた。悠樹がゆら、と近づく。長い前髪が夏帆の眉にかかった。

 ギシッ。ベッドが二人分の重さで低く鳴る。もうなにも喋らなかった。言葉の代わりに何度もキスをした。
 やがて一つになったとき、夏帆はようやく微笑んだ。しばらく笑うことも忘れてた、と頭の隅でおもう。
「どうしたの?」
 悠樹が夏帆を見下ろして優しく尋ねる。なにか言おうとして、でもなにを言っても泣いてしまいそうで、ゆっくり首を振った。

 体の隅々まで恋してる。
 そんな自分を実感した。

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