結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
「卒業したら大阪に来ないか」

 いつものように練習していると、スクールのコーチが言った。
 屈伸をしていた悠樹は言葉の意味がすぐにはわからず、ポカンとした顔で振り返った。

 この三年間ずっと悠樹にダンスを教えてくれているコーチは悠樹の憧れで、いつか越えたいと思っている存在だった。業界では有名なダンサーで、アーティストのバックダンサーとしてツアーに同行したりイベントに出演したりする一方で、若手の育成のためにスクールのコーチもしている。悠樹は長いこと親を説得して、ようやくこのスクールに行ける距離の学校に通わせてもらっていた。

「俺もそろそろ自分の城を持とうとおもってさ」
 コーチは照れ臭そうに、でも誇らしげにそう言った。
 大阪。
 告げられた地名を口の中で飴玉のように転がす。
 大阪は日本で一番大きな大会を開催する、ダンスの聖地だ。仕事を取るなら東、力をつけるなら西と言われている。
 東京で培ってきた人脈を活かせば、コーチはきっとこれからも華やかな仕事を続けていける。でもあえて知り合いのいない場所に進んでいくことに、ダンサーとしての挑戦を感じた。

「俺と一緒に来ないか。おまえにとっても必ずプラスになると思う」
 その言葉に悠樹はしっかりと頷いた。頭の中にいくつもの大会が浮かぶ。関西地区が主催のダンスバトルやコンテスト。オーディション。エンターテイメントの街で、自分の力を試したい。
 喜びと興奮が頭を突き抜け、けれどその後に浮かんだのは夏帆の笑顔だった。

 離れるなんて考えられない。
 だけど、夏帆はきっと止めない。いつもみたいに笑って応援してくれるはずだ。そう思った。
夏帆の優しさに甘えていたと気づかされるのは、もう少し後のことだ。 

 おもった通り夏帆は止めなかった。だけど待ってるとも言わなかった。水が流れるように自然に、別れる雰囲気になった。うそだろ、と思う一方で、どこかで予想してた自分に気づく。
それはとてもあっけなくて、現実感がなくて、でも襲ってくる圧倒的な虚無感は疑いようもなかった。胸の真ん中がぽっかり空いたようなかんじがした。

 真夜中、眠れずにうつらうつらしたまま横になっていると、
 ドンドンドン! 
 ドアが思い切り叩かれた。
 夏帆だ。そう思い込んで飛び起きる。

 扉の前に仁王立ちしていたのはミドリだった。
「夏帆と別れたんだってね」
 落胆からいっきに疲れが出て、壁によりかかる。夏帆の親友のミドリ。前から押しの強い人だな、という印象があったから、どういうことを言われるのか予想がついた。今はとても相手ができない。
 だけどそうはならなかった。
「ま、賢明な判断だよね」
 ミドリはアッサリとそう言った。両手を腰にあてて、
「まだ君若いもん。ってか子どもだもんね。夏帆のこの先の人生考えたら、これでよかったんだよ」
 なに言ってるんだろうこのひと。悠樹はぼんやりとミドリを見た。昼間夏帆と別れてからずっとそうだ。なにを見ても聞いても言葉が頭に入っていかない。
 ミドリはかまわず続けた。
「夏帆、ぽろっと言ったんだよね。結婚もしたいしって。そんなの言ったことなかったでしょ」
 水に流れる小石のように通り過ぎていた言葉が、ぽつんと心の端に引っかかって止まった。

 結婚?

 ミドリのカールした睫毛の下からのぞく目が、じっとこちらを見ている。悠樹は壁によりかかっていた体を起こしてつぶやいた。
「はじめて、聞いた」
 ふん、とミドリが鼻息を荒くした。
「高校生相手に言ったってしょうがないもんね。少年、私たちくらいの年齢になるとね、恋愛してたらどうしたってその先に結婚を考えるのよ。君にはまだ先の先、雲の向こうの話でしょうけどね」
 喋ってる間に火が点いて来たらしい。ミドリの眼差しも口調もどんどん険しくなってくる。悠樹になにか言う間も与えず、ミドリは刺すような目で言った。

「自分の夢ばっか追いかけるのもいいけどさ。君は、夏帆の夢を考えたことはあんの? 私はね、ヨリ戻してほしいだなんておもってんじゃないよ。むしろそんな勝手な野郎に親友をあげる気はない。それだけは言いたかったんだ」
 言うだけ言うと、ミドリはバタンと悠樹の鼻先でドアを閉めた。

 悠樹は呆然と立ち尽くして動けなかった。電気もつけない真っ暗な空間に、あの雨の日に抱きしめた夏帆が浮かんで、消えた。
 
 高校生。
 そうか、俺、高校生なんだよな。
 あたりまえのことを、いまさらぼんやりと噛みしめる。そして夏帆をおもった。

 ふつうの会社で働く大人の女のひと。そんなひとがどんな気もちで、高校生の俺と一緒にいたんだろう。
 
 思い出すのは笑顔ばかりだった。あんまり泣かないのに、さっきは泣いてたな。
「――夏帆」
 言葉にすると、どうしようもなかった。ずるずるとその場に座りこむ。

 俺はなにをしてたんだろう。

 自分のことばかりで、気遣う余裕もなかった。そうだよ。泣いてたじゃん。夏帆、泣いてたじゃないか。
 いくつもの言葉にならない想いが体を駆け巡る。鼓動はリズムを無視して暴れ続ける。

 カーテン越しに、表通りを通り過ぎた車のテールランプが射しこんで、光の筋が部屋を横断した。なにげなく目で追うと、昼間夏帆が洗っていた大皿が洗い物籠にそのまま置いてあった。一人では使わない大きな皿。
 
 取り戻したい。
 
 想いが胸を貫いた。
 空間を見る悠樹の目に、徐々に熱がともる。

 夏帆の夢? 
 上等じゃないか。結婚したいなら、俺とすればいいじゃないか。

 そう考えて、鼓動がまたドクンと鳴った。

 ケッコン? 
 俺と?

「なんだよそれ」
 そう呟いて、でも唇は中途半端な笑いを宿して止まる。ふいに芽生えた考えが、急速に熱と形を持つ。
 今まで考えたこともなかったけど、もし夏帆が良いと言ってくれるなら。一生、俺のそばにいてくれるなら。

 まだ始まってもないのに、その考えはおもいがけず悠樹を幸せにした。自然と笑みがこぼれる。

 なんだ。夏帆の夢は、俺の夢でもあったんだ。 



 翌日、悠樹は公園に向かった。あの日と同じようにミネラルウォーターを持っている夏帆を見て、ごくりと喉が鳴る。

 そうか、これが緊張か。
 痺れた頭で思う。

 俺、これからもっとかっこ悪くなってく。緊張するし、不安にもなる。だけどそれは全部、このひとに関してだけだ。

 いいよ。どんなにかっこ悪くても、いい。それでも。
 
 夏帆。
 名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
 それでも失いたくない。手に入れると、決めたんだ。
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