結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 ここの鍵ボロいんだよ。

 悠樹の言葉通り、校舎の片隅にある用務員室の扉の鍵は、えいっと力をこめると簡単に開いてしまった。唖然とする夏帆に、悠樹は得意げに笑う。

 空いてる時間に少しでも踊れる場所を探すために、悠樹はふだん生徒が行かないような場所もずいぶんウロウロしていたらしい。
 そのうち見つけたのがこの用務員室だった。扉の鍵が古いことに気づいた悠樹は、たまにこうやって外から忍び込んでは、全身鏡のある体育館で踊っていたという。

 まったく、なんて子なんだろう。

 妙にテンションの高い悠樹に促がされるまま廊下を歩く。履いていたスニーカーを脱いでリノリウムの床に立つと、冷たさに身震いした。

 私いったい何してるんだろう? 

 明日には結婚するのに、なんで旦那さんの卒業した学校に忍び込んでるんだろう。
 疑問がくり返し浮かび上がる。文句を言おうと悠樹を見ても、廊下の窓に映りこんだ自分の姿に夢中になってこっちに気づかない。
 ナルシストってわけじゃない。悠樹は自分の姿が映るものを見ると、姿勢と振り付けの確認をせずにはいられないのだ。信号を待ってる時に目の前で止まった車の窓の前でも、ウィンドーショッピングのガラス戸でも。最初は驚いたけど、今ではもう慣れてしまった。
 こういうときの悠樹になにを言っても無駄だと知ってるから、諦めて後について行った。

「ここ、俺の教室」
 三年C組と書かれた札がドアの上に付いていた。夏帆たちのときはひと学年七クラスくらいあったけど、今は少子化だからだろうか、隣の教室は表札もない空き教室のようだった。

 ガラッ。

 シンとした暗闇に、大きな音が響き渡る。
「おー、なんかすげぇふしぎ。さっきまでここにいたんだよなぁ」
 夏帆はゆっくりと周りを見渡した。

 字の跡が薄く残った黒板。だれかが書いたまま消し忘れたのだろうか、端の方に書かれた卒業おめでとう! の字とラクガキ。少し蛇行して並び合ってる机と椅子。窓の両端に寄せられたカーテン。その向こうには校庭が見えた。屋根がかまぼこのように丸くなってる体育館。サッカーゴール。テニスコート。
 
 夏帆が高校生だったとき毎日過ごしていた教室も、こんな感じだった気がする。学校って、何年経ってもあまり変わらないんだな。
 窓側の前から三番目の机に腰かけた悠樹が、こっちを見てゆったりと笑う。
「おいでよ」

 その言葉に少しだけ躊躇いながら、開いたドアの敷居をまたいだ。静かな教室で、自分の足音さえも妙に大きく聞こえる。

「ここさ、今日まで俺の席だった」
 悠樹が座ってる机を撫でるように、そっと手を置く。
「卒業式でも、別になんとも思わなかったんだけどさ。なんか最後、一緒に来たくなった」
 悠樹は椅子の背を引いて座ると、隣を指さした。

「ここ座って」

 微笑む悠樹に促がされて隣に座る。ガタン。少しガタつく椅子は固くて、懐かしい感触がした。机に付けられた無数の傷やラクガキ。会社のデスクとは全然ちがう。

 ふいに十年前を思い出す。退屈で長かった授業。教室から見る校庭の風景。毎日なにかがあった、高校生の自分。
 悠樹が夏帆を見ていた。人がひとり通れるくらいの、いつもとちがう距離感。ほんの少しだけ遠い。悠樹の睫毛が長いことは、これくらいの距離のほうが気づきやすい。

 悠樹は机にうつ伏せになって、組んだ腕に頭を乗せてこちらを見ると、
「花村、教科書忘れた。見して」
 と言って笑った。
「え?」
 面食らって聞き返す。沈黙が落ちる前に、悠樹は笑って起き上がった。
「なんてな」
 言いたいことがわかるような、でもわかりたくないような気もちで悠樹を見る。悠樹は教壇の方を向いたまま尋ねた。

「ねぇ、夏帆たちのときにも第二ボタンあげたりしたの? あ、女子はもらうのか」
「第二ボタン?」
 悠樹はこっちを見ると小さく頷いて、ポケットから黒いボタンを取り出した。それがなにを意味するのかわからない。問うように悠樹を見る。
「クラスの女子がさ、欲しいって言ってて。なんかもらうんだって、卒業式には男から」
 その話は知ってる。というか、今でもあるのが意外だった。制服のボタンを好きな男の子からもらうなんて、いかにも昭和っぽい。悠樹たちの代にまでそんな習慣が残ってるとは思わなかった。
「欲しいって言われたんだ」
 尋ねながら悠樹が掌で玩ぶボタンを見る。ふと明るい髪の女の子が頭に浮かんだ。
 あの子、悠樹のことが好きだったんだろうな。夏帆を見る目つきから、想像できた。

「妬いた?」
 ボタンを掌でグッと握りこんで、悠樹がニヤッと笑う。予想していた質問だったので、興味がなさそうな顔を作れた。
「ボタンくらいあげればよかったのに」
 心にもないことを言う。でもこのくらいの余裕は見せたかった。
 悠樹がチェーッとつまらなそうな顔をする。

 チラッと教壇の上の時計を見ると、九時になろうとしていた。本格的に焦ってくる。母だって心配する。
 ねぇもう帰ろうよ。そう言おうとして、

「夏帆」

 それまでとは違う声音に呼び止められる。じっとこちらを見る瞳は静かで、なんだか知らない人みたいだった。
「なに?」
わずかに身構えて尋ねると、悠樹が口を開いた。

「――こわい?」
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