ただいま。

 口の中で呟いて扉を開けると、室内は真っ暗だった。十時を過ぎているとはいえ、寝るにはまだ早い。居間をのぞきこむと、ぼそぼそと話し声がした。

 和室の奥、縁側に両親が並んで腰かけていた。細い猫背の背中と、丸い小さな背中。月明かりを受けて、父の肩口と母の髪が白く光っている。夏帆は居間のドアの前に立ったまま、そっとその様子を見た。

 お父さん、寝ちゃったとおもったのに。
 
 ぼんやりと父の後ろ姿を見る。母がくすりと笑った。
「お父さん、顔真っ赤よ。もう寝たほうがいいんじゃない」
「あれっぽっちで酔えるか」
 小さく吐き捨てるように父が言う。ふー、と大きな息を吐いた父に、
「お酒臭いわよ」
 と母がすかさず言うのが聞こえて、口の端で笑う。両親は夏帆に気づかず話し続ける。

「なんだかなぁ。ねぇ、君の父さんもこんな気もちだったのかなぁ。損だよなぁ、親父なんて。ほんとになぁ」
 お酒のせいか、父の声は湿っぽく緩んでいた。いつもとはちがう。
 母は笑いを含んだ口調で、
「そりゃーそうよ。あんなに反対されたくせに、忘れちゃったの」
「覚えてるさもちろん」

 意外にも、父も笑っているようだった。夫婦の肩が小さく揺れる。形も大きさもちがう背中は、その瞬間なぜかそっくりに見えた。

 父の肩がさらに下がる。背中が丸まる。痩せた亀のような背中。昔はもっともっと、大きいと思っていた。
あの背中におもいきり抱きついたのはいつが最後だったろう。

「長いことさ、研究者をしていて思うんだよ。『うまい』って、なんなんだろうとね」
 唐突に変わった話にも、母は驚いた様子もなく黙って聞いてる。
「五年かけてようやく作った調味料が、ほかの塩味――酒やみりんや醤油なんかと混ぜるとまったくうまくない、大失敗だったというときもある。逆にまずかったはずなのに、この塩味とあわせたらうまくなったという場合もある」
 君のビーフシチューがうまいのも、すべての調味料のね、配合がうまいからなんだよと父は話す。母はウンウンと頷く。父が話して、母が聞いて。いつもと逆だ。
「うまいって、僕らが研究し追求しようとしてることって、結局は主観でしかないんだ」
 お父さんでも、酔うとこんなふうにとめどなく喋るんだ。まじまじと父を見つめる。そんな父に根気良く付き合う母も夏帆にとっては意外だった。

「結局、すべてがそうなんだ」
 父がため息を吐いて胸を反らした。伸びをするように。
「予想外の組み合わせの調味料でも、うまいと感じる場合もある。……結局そういうものなんだ」
「悠樹君はいい子よ」
 それまで黙っていた母が言った。夏帆はわずかに目を見開く。そこにつながる話だったんだ。

 母はサバサバとした口調で言った。
「まだ若いけど、あの子をちゃんと守ろうとしてる。よかったじゃない、いい人と巡り会えて。歳だけ取ってろくでもない大人、いっぱいいるんだから」
 父はしばらく黙っていた。フローリングの床に佇む足が冷えてきても、夏帆はその場を離れられなかった。

 やがて父が答える。
「酵母は無数にいて、その数だけちがう成長をする。培養時間が二十四時間かかるものもいれば、その半分で培養するものもいる。逆に培養時間が長すぎると死ぬ酵母もいる」
 そこまでひと息に話すと、また長い息を吐いた。
「時間とタイミングは、それぞれで違う。そして、どれが正しいということもない」
 ゆっくりと、自分に言い聞かせるような口調だった。母が黙って父の背中をポンポン叩く。父が頭を垂れた。

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