ルードヴィヒの涙
第8章 ディンケルスビュール

一昨日の夜は、ローテンブルグにある中世の名工の名を冠した小さなホテルに拓人は宿をとった。

やはりそこは、七年前に詩音と泊まったホテルであった。

久しぶりに訪れたそこは、エントランスと呼ぶにはあまりに華奢ではあるが、気品のある入り口を入ると落ち着いた雰囲気のロビーとなっており、充分に使い込まれた感のある調度品が置かれ、また中世の騎士が身に付けた様な甲冑も飾られていた。

れらは七年前となんら、変わりはなかった。        
通された部屋は小さいながらも清潔感に溢れ、額に飾られた絵画が壁に掛けられていた。窓からは小さな中庭が見えた。

拓人はもう一日そこに滞在する事とし、そして今日の午前中、ここディンケルスビュールの街に入ったのであった。        

 この街もローテンブルグ・オプ・デア・タウバーと同じく城郭都市であり、中世の面影を多く残していた。
ただ、ローテンブルグほどは街も大きくなく、またその分、人も多くはなかった。

拓人は人影もまばらなこの街が当時から気に入っていたし、詩音もせわしない現代からぽつんと取り残されたようなディンケルスビュールを、ほんの短い時間ではあったがとても愛した。

彼はしばらく石畳の上を歩いた。そう遠くないところに大きな教会が見える。ふと道の脇を見ると、人通りのない木組みの家の前に車が止められており、車道と舗道を隔てる様にチェーンが張られていた。

拓人はそのチェーンに腰を乗せて、教会を眺めた。
その教会の外壁は長い時を経たためか、濃いめの茶色のように見えて実に重厚で、しかもどこか優しさを感じさせる建築物であった。たしか聖ゲオルグ教会のはずであった。              


 拓人が世田谷の詩音の両親を訪ねた日、ふたりは駅の改札で別れた。詩音は、最寄りの駅まで、拓人を送ってくれたのであった。

別れ際、詩音は           
「今日は、ほんとうにありがとうございました」         
と言った。

ほとんど化粧をせぬまま家を出てきた詩音であったが、やはり充分すぎるほどに美しかった。
もう「ふつうの詩音」に戻っていた。

そして、その日から四週間後、拓人と詩音は婚約をした。
両親が切にそれを望んでいる、と詩音から伝えられたことが、拓人を決心させたのであった。              

 初夏と呼べる頃に婚約をした拓人と詩音は、両家の両親の意見も尊重し、出来うる限り早めに挙式をあげようと相談をした。

しかし、ともに仕事が立て込んでおり、どうしても十二月に入るまでは日が空かなかった。         
夏の休暇もままならぬ忙しさが続き、ようやく九月の末に式場の手配ができた。師走も押し迫る前には、と十二月の初旬の週末にふたりは日取りを決めた。            
式は身近な親類と、ごく親しい会社関係の人のみを招く質素なものにしよう、と拓人と詩音は話し合った。

ふたりの考えはもちろんのこと、両家とも派手で晴れがましいことを好まない家風は共通していたので、そのような式となることは当然のなりゆきであった。               


 夏季休暇も取れぬほど忙しかった夏が終わり、本格的に秋に入ろうかという十月の中旬、拓人と詩音は葉山の海の見えるレストランで詩音の誕生日を祝うことにした。ふたりが出逢ってから、ちょうど一年が過ぎようとしていた頃であり、挙式までにはまだ二ヶ月ほどの期間があった。

「やはり、お義父さんやお義母さんも一緒の方が良かったかな?」

拓人は気になって、もういちど詩音に聞いてみた。

店を予約する際、詩音に伺いを立てたのであるが、詩音は
「ふたりだけの方が良い」
と言って拓人の提案を受けなかった。

「お気になさらないで。だって私、ほんとうにあなたとふたりだけの方が良かったのですもの」

詩音はそう言い、それよりもワインを選びましょう、と言った。
今日が、ふたりで祝うはじめての詩音の誕生日であった。

ウェイターが持ってきたワインリストの中から、ふたりはボルドー産の赤ワインを選び、そして料理はそれぞれ好きなものをチョイスし、あとでシェアすることにした。

いつもより少しドレスアップした詩音の美しさは、さらに際立ったものになっていた。
ふたりは、ワインのグラスを合わせて乾杯をした。

「誕生日、おめでとう」

拓人はまわりに迷惑にならぬよう、小さな声で言った。

「ありがとう。あなたも、御からだに気をつけて」

詩音は口元をほころばせるように微笑んで、拓人に気遣いの言葉を伝えた。そして、消え入りそうな声でつづけた。

「私、男性に自分の誕生日を祝って頂くのは、はじめてなのです」

詩音はそう言うと、うっすらと頬を染めた。

「なので今日は、ふたりだけで、とあなたにお願いをしました」

詩音は拓人と目を合わすことをはじるようにテーブルクロスに目をおとしたまま、そう言った。

「それなら、今日は僕たちにとってほんとうに忘れられない誕生日になるね」

拓人はそう言うと、詩音の形の良い口元を見つめた。

レストランの海側にセットされた大きめの窓からは、相模湾が一望できた。所々、遠くに明かりが見えるのだがそこがどこであるのかは、拓人にはわからなかった。

「もう、一年になるんだね」

拓人は窓の外の景色から詩音に視線を戻して、ワインのグラスを持ちながら言った。

「そうね。もう、一年になるのね。早いわ」

「君と、はじめて逢った日のことを、僕はよく憶えているよ」

「私もよ。あなたは私のことなんかまるで気にもかけないで仕事に夢中だったわ」

詩音は少し恨めしそうに、しかし愛嬌たっぷりにそう言った。
拓人は実はそうではなく、充分に気になっていたのだが、何を話してよいのか考えあぐねていた、と言い訳をした。

「でも、私はずっと同じテーブルであなたを待っていたの」

拓人はその日のことを、あらためて思い浮かべていた。
たしかに詩音は、テーブルを移動せずにずっとその場所にいたのであった。

しかし、と拓人は思った。自分が強く詩音に惹かれたのは、決してその秀いでた美貌だけではなかった。

どこか陰影のある、他の女性とはまったく異なる内面の有り様を、そのときの詩音に視たからであった。拓人はそう、回想していた。

オードブルが運ばれてきた。ふたりはオーダーした牡蠣を口にした。

「君は、とてもきれいだったよ」

拓人は詩音を見て思い出すように、そしてはっきりと言った。
詩音はうれしそうな表情をして、しかし、少しだけ首をかしげた。拓人はその意味に気がついて言い直した。

「君は、きれいだよ」

詩音は、はずかしそうにワイングラスに口をつけた。

 魚料理が終わりメインの肉料理が運ばれるころ、拓人はずっと気になっていたことを詩音に聞いてみた。
表参道のカフェで「偶然」の再会をした日のことであった。

「あのとき、どうして君はまったく驚かなかったの?」

詩音は一瞬の間のあと、「ああ、そのことか」というような表情をうかべて拓人の質問に答えた。

「なぜって、それはね、あなたにもういちど、必ず逢う。私にはそれがわかっていたことだったから」           

詩音はそう言うと、「知らなかったの」とでも言いたげに拓人を見つめた。その表情は昔をなつかしむ様でもあり、また年上の女性が年下の男性を導く仕草にも似ていた。

「そうか。君にはわかっていたのか。僕は、カフェの椅子に君を見つけた時、ほんとうにびっくりしてしまったんだ。こんな偶然もあるものなのか、と。そして、一直線に君の席に向かった」

拓人は、その日の表参道の人ごみを思い出しながら言った。
それは、拓人にはもうかなり以前のことのようにも思えたのであった。

「そうだったわ。あなたは、そう、多分一直線に。私にはそれがわかったの。見てはいなかったけれど」

詩音はそういうと、自分がチョイスした仔羊のローストをきれいに切り分けて、拓人に奨めてくれた。

「でも、勘違いなさらないで。今の私の言い方ですと、あなたが一方的に私に好意を寄せていた、そのように聞こえてしまいまいますわね」

詩音は自分の言い方が正しくなかった、と訂正するように言った。

「あなたが一直線に私のところに来て下さったのは、それは私の、あなたに対する思いの勁さからなのです。私のあなたに対する一途な思いが、あなたにそう行動させたのです。そして、その気持ちは今も、そしてこれからも、変わることはありません」

詩音はそう言うと、小さく息を吐き、拓人に今日の礼を述べた。

「こんなに素敵な誕生日を迎えられるなんて」

それはボヘミアングラスのように煌びやかな声で語られた、詩音の言葉だった。
拓人は詩音が分けてくれた仔羊を口に入れ、残りのワインをゆっく
りと飲んだ。

「来年もまた、ここに来られるといいね。それとも、今度は違うお店のほうが良いのかな?」

拓人がそう言うと、詩音の手にしていたナイフとフォークの動きが一瞬止まった。そしてそのまま、詩音は静かに拓人を見つめ返した。その詩音の瞳は拓人を見ていて、しかしその先のさらに奥深くにある何かを見つめているようでもあった。

そしてその色は、深い海の底のような漆黒に近い緑色であった。

その日ふたりはレストランで食事を楽しんだあと、七里ヶ浜にあるホテルに泊まり、翌日東京に戻った。
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