ルードヴィヒの涙
第9章 フュッセン

悲劇の王とも呼ばれる第4代バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、僅か四十年の生涯の中で幾つかの壮麗な城を残した。

ロマンチック街道の終点であるフュッセンからほどちかい、岩山の中腹に建てられたノイシュバンシュタイン城は、その中でも、最も美麗な城として知られていた。             
七年前、拓人と詩音が訪れた『最後の地』がその城であった。         


結婚の記念ともいえる旅行の行先を、どこにしようかと話している時、ドイツを訪れてみたい、と言ったのは詩音であった。   
勿論、拓人も賛成した。仕事では何度も行ったことのあるドイツであったが、観光の経験は無かった。

そして、その美麗な城を見てみたい、と言ったのも詩音であった。    

七年前の十月の初め、拓人と詩音は日本を発ちドイツへと向かった。出逢った日から、二年近くが過ぎようとしていた。

ヘルシンキ経由でフランクフルトに入りそこからハイデルベルグへ、そしてロマンチック街道と古城街道の交差する街、ローテンブルグ・オプ・デア・タウバーへ、さらにディンケルスビュール、ネルトリンゲンと南下し最終地フュッセンまで、ふたりは中世の中に身をゆだねたのであった。                 


拓人と詩音がノイシュバンシュタイン城を訪ねた日は、ふたりのドイツでの行程の中で唯一、小雨がちらついた日であった。

前日にはフュッセンに到着していたのだが、あえて翌日に、城を訪ねたのであった。  
前日までは、まったくの好天だったのである。ドイツに着いた日の、旅の最初からずっと天気に恵まれていただけに、余計に寒さが身に染みた。                

山の麓から遠くにたたずむ城を見上げると、城はその名の如く、まさに大きく翼を広げた白鳥の様であった。拓人と詩音は大きく曲がるカーブの坂道を、歩きながら登った。そして、登り切ったところが城の入り口であった。                 

ふたりは、何も言葉を交わさないまま城の中に入った。
するとそこは、もちろんのこと美しいと言えるのだが、言い方を変えれば妖気が漂う様な空間、という印象も強かった。

城の中は、想像していたよりもはるかに広く、そして大きかった。

「何だか、少し怖いわ」         

詩音はそう言うと、拓人の左腕に自分の右腕を強く絡みつけてきた。        
いくつかの部屋を抜け、螺旋状の階段を登って階上に上がる途中、城の開口部から外の景色が見えた。

バイエルンの山々に雨が降り注ぐ様(さま)は、しっとりとした情感を湛えていた。              
拓人はこの城の完成を夢見て、その後、わずか百日あまりしかこの城に住むことが出来なかったという、悲劇の王の生涯を思った。 

美青年たちを近侍させ、自分と同じヴィッテルスバッハ家の一族であるオーストリア皇后、
エリーザベド以外の女性には一切の関心を示さなかったといわれる王。
神話や騎士道物語の中にだけ自身の居場所を求めた王。

人生の最後には「狂王」とまで呼ばれた王。

そしてその悲劇の王は、臣下たちに捕えられた直後に謎の死を遂げている。
遺体が見つかったのは幽閉されていた城の、すぐ近くの湖であったという。                 

「この城には、王の無念が詰まっている」 

拓人はそう思った。
城にいる間、常に誰かがそばにいる、あるいは誰かに纏わりつかれている、そんな気がしていたのである。

拓人にはそれが、ルートヴィヒその人なのでは、と思えて仕方がなかったのであった。           

 ふたりは時間を掛けてゆっくりと城内を見てまわり、世界で最も美しい城のひとつと言われる所以を堪能した。

城は外観だけではなく、十分に内部も魅力的だったのである。
拓人と詩音は城を出て、坂道を下りながら湖の方に向かって歩いた。城の中にいる時、森の向こうに、湖があるのを見たからであった。                 

 「ずっと晴れていたのにね」       

拓人は詩音に話しかけた。小雨はまだ、降り続いていた。

「きっと、さびしかったのね。このお城を建てた王は」

「うん、きっとそうだね」         

「愛する人がいないって、とてもさびしいことだと思うわ」

「うん、もちろん」           

「こんなに大きなお城の、あんなに広いダイニングで、ひとりでお食事をしていたのでしょう?」

「うん。そうらしいね」         

「私なら、きっと耐えられないわ」    

「僕だって同じだよ」          

ふたりは城から見えた湖を目指し、森の中を、手をつなぎながら歩いていた。              
「でも、私にはあなたがいるわ」     

「僕にだって、君がいる」        

詩音の手はあたたかで、柔らかかった。
小雨のせいか、森の中の道はしっとりと濡れていた。

「今日の雨、何だかとても哀しいわ」    

詩音は歩を緩めながら、拓人の横顔を見上げるように言った。

「そうだね。なんだかとても哀しいね」            

拓人は足元の良くない森の小路で、詩音が足を取られない様にと、気遣いながら答えた。

「なぜかしら?」                  

詩音は歩を止めて拓人に聞いた。           

「うん。僕はね、これはきっと、ルートヴィヒの涙雨だと思うよ」

「そうかしら?」            

「きっとそうだよ」           

「ええ、そうね。あなたが言うならきっとそうだわ。」

詩音は拓人を見上げて、にっこりと笑った。

深い森の小路を歩き続けていると、ようやく木々の隙間から目指していた湖が見えた。
僅かに姿を見せたその湖は、表面に深い緑色の絵の具を捲いたように見えた。 

それは、五月に詩音と訪れた高原の湖と重なった。 
しかし、まだ相当の距離があるようにも思えた。                  

「ほんとうに、すばらしい旅行だったわ」

「そう思ってくれるの?」

「ええ。なにもかもが、充分すぎるほどに素敵だった。あなたのおかげだわ」

歩きながら話しているうちに、ふたりはやっと森から出ることができた。
湖は、もうそんなに遠くないところまで迫っていた。

「ねえ、あなた。もういちど言わせてほしいの」

詩音はしっかりと拓人の手をにぎりしめ、そして拓人の目を見つめて言った。

「私、ほんとうにしあわせだわ」    


 ふたりはその日、フュッセンの街の小さなホテルに泊まり、翌日ミュンヘンからの便で東京に帰った。
しばらく離れていた東京は、思っていたよりも季節がすすんでいた。拓人はその翌日から社に出た。

そして詩音も、ドイツに旅する前と変わらぬ日々を送っていたはずであった。
しかし、ドイツから帰って七日後、詩音は高原のひっそりとした湖にひとりで入り、
自らの若い命を絶った。

数日後には誕生日を迎える、十月としてはとても寒い日であった。

詩音は、わずか二十四年と十一ヶ月の生涯を閉じたのであった。
それは拓人にとっては、あまりにも突然のことであった。

東京はもう確実に、冬への準備に入ろうとしていた。
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