ルードヴィヒの涙
第2章 東京Ⅰ オフィス

「おい中町、部長は何だって言っていた?」
と、フロアーの隅に設けられたパブリックスペースで、ぼんやりと外を眺めていた拓人の横に腰掛けながら、市川が聞いてきた。

市川は拓人の三歳年嵩で役職は課長代理であった。

拓人が勤める大手電機メーカーは、この五十五階建て高層ビルディングの二十五階から
四十四階までをテナントとして借りていた。

彼の所属する営業本部営業三課は最も上の四十四階に配置されており、そしてそれぞれの階の東側の隅に、コーヒーブレイク用のスペースが設けられており、各々好きな時間に休憩が取れた。

しかし時勢から、喫煙は禁止されていた。                  

拓人が部長の木内に呼ばれたのが午前中の十一時過ぎであった。それを横目で気にしながら市川は外回りに出かけ、つい先ほど帰社していた。                

「山口と荻田が大変そうなので、悪いが助っ人を頼むって」
と拓人は、木内から言われたままを市川に説明した。

山口と荻田は拓人と市川の後輩であり、大切なプレゼンテーションを目前にして、
三課を代表してドイツの営業所に行っていた。

「じゃあ、しばらくシュトゥットガルトに行けってことかい?」                 
市川はさらに聞いた。喫煙者の市川は、煙草の吸えないこの場所ではいつも
そわそわとしていた。                 
もともと、山口と荻田にはまだ荷の重い仕事であったが、経験を積ませたいとの
木内の意向で現地に先乗りしていた。

拓人にしてみれば、こうなることは想定の範囲内であった。

「そういう事になりますね」       
という拓人の答えを聞いた市川の目には、人懐こい笑顔があった。          


拓人がこの会社に入社以来、市川とはずっと同じ部署であった。仲の良い先輩後輩であり、
仕事上でも私生活においても固い友情で結ばれている拓人と市川には、二人にしかわからない意思の疎通と微妙なアイコンタクトがあった。

拓人がしばらく日本を空けるとなると、その代わりが務まるのは市川以外にはいなかった。
もちろん大手企業であるからには拓人の先輩と呼べる営業社員は何人もいたが、彼らは皆、
拓人よりはるかに能力が低かった。

そんな彼らに拓人の顧客の面倒を見るなど、出来ない相談であった。
そもそも、木内と次長の山川がそのようなことを許すはずがなかった。                  

市川の「何かを言いたそうな目」を見て、拓人には彼の「魂胆」がすぐにわかった。
拓人の留守中、顧客の面倒を見る代わりに拓人が帰国した際には何かを奢らせようというのである。

市川にしても難易度の高い拓人の顧客管理を短時間で引き継ぎ、且つそつなく社内を含めて、すべての人を満足させられるのは自分しかいない、ということは充分に承知していた。
しかしそれは決して自惚れではなかった。                 

「その時は、寿司か河豚でいいよ」         

市川は笑みを浮かべながらそう言った。
「すべてはそういうことだな」
と、拓人も笑い返してうなずいた。                                               
タクシーを降りて、自宅のあるマンションの八階に向かうエレベーターの中で腕時計を見ると、すでに日付けは変わっており午前三時に近かった。拓人は自分の部屋の鍵を回し、ドアーを開いた。

面倒くさそうに靴を脱ぎ、突きあたりのリビングルームまでゆっくりと歩くと、ソファーにジャケットを投げ掛け、そのまま床に足を投げ出して座った。

そして前日の午後からの出来事を、もういちど反芻してみた。               

先輩の市川に木内との話の内容を問われて、彼はそれを市川に伝えた。
そこまでは至極当然の流れである。

しかしそれは失敗だったのである。拓人は迂闊にもその日が金曜日であることを一瞬忘れていた。             

「そういう事なら善は急げ。早速、これから打ち合わせをしよう。
七時に『いま川』で良いな」
と市川は言い置くと、さも忙しそうに自席に戻って行った。

拓人はその時になり自らの失敗を悔いたが、すでに時は遅かった。   

それは「金曜の夜」を、市川が見逃すはずはなかったし、当然の「事の流れ」として、
本日の払いは拓人であることは疑いようがなかった。
体よく彼は市川の垂れた針に掛かってしまったのであった。                

『いま川』は年に数度、懐の温かい時にしか訪れない高級割烹であった。
元々は拓人や市川をとても可愛がってくれた、元取締役の遠藤が通っていた店である。

しかしふたりとも遠藤に何回か連れて行ってもらううちに、いつの間にか遠藤のいない時でも自分たちだけで通うようになっていたのである。

いつも多くの人で賑わう赤坂見附の駅を降り、放送局の方へと向かう細い路地を、
幾つかの角を折れながら歩いて行くと、左側に『いま川』はあった。

店には拓人が電話をして、座敷の用意を頼んでおいた。       


「まあ、とりあえず乾杯だ」       
市川はそう言ってグラスのビールを一息に飲み干した。

その日も、一緒に退社すれば周りの目もあり角が立つので、市川が先に退社し三十分遅れで拓人が社を出た。

市川は先に店に着き拓人を待っていたのであった。そんなことからして、ふたりは普段から「あうんの呼吸」が合った。

一杯目を一気に体に流し込んだ市川はビール瓶を手にし、自ら二杯目を
自分のグラスに注いで、
「まずは仕事を片付けてしまおう」
と、拓人がドイツに行っている間の主な顧客のフォローについて話し合った。

抜け目のない拓人と市川は、普段から万一に備えて、互いの顧客に面通しをさせていた。
それは同行営業や酒宴を通じてである。

そのようにしておくと体調の悪い日や急用で出社がままならぬ時に、
「スムーズ」に休暇が取れるのであった。

この「手法」もやはり元取締役の遠藤から伝授されたものだった。

しかしこれには「コンビを組む二人」が同等の能力を持ち、常日頃より仲が良く、
さらに営業成績に優れ且つ木内と山川からの信頼を得ている、という条件をすべて
クリアーしていなければならなかった。

そして、いつもは市川がこの「手法」で休暇を取るのであるが、今回は拓人が
これを使う番であった。                  

「活きの良い比目魚が入ったので如何か?」
と女将に勧められた二人は素直にその勧めに従っていた。

「お前も、こうなることは予想していたのだろう?」
と市川は好物の刺身を頬張りながら言った。  

「まあ、そんなところですね」        
と拓人は『もうひとつの事』を市川に切り出すタイミングを見計らいながら答えた。    


前日、木内との話が終わった後、「一緒に昼飯でも食うか?」と誘われたが、至急の用件が残っており拓人は木内の誘いを断らざるを得なかった。ようやく片がつき腕時計を見たらすでに二時を回っていたのである。

誘うべく同僚も見当たらず、仕方なく拓人はひとりで地下二階にある喫茶店に向かい、
遅い昼食を摂った。

店の中はランチタイムも過ぎてがらんとしており、拓人のほかにはひとりしか
客はいなかった。

拓人はテーブルに来たウェイターにコーヒーとサンドイッチをオーダーし、
ほんのつかのま手持無沙汰になった。

その時に、いままで拓人の心の中で永年に渡って燻ぶり、蓄積され続けていた「澱」のようなものの正体が見えたような気がしたのである。

そしてそれは、その正体を現すと、雷雲の如く一気に拓人の心を覆い尽くし、まるで魔物が迫りくるかのように彼にその「実行」を迫った。                  

拓人は決心した。それは自らの意思のようでもあり、あるいは得体の知れない大きな力によって突き動かされている感覚でもあった。

何かに「あと押しされている」という切迫感かも知れなかった。

いずれにしろ、彼の心の中に明確な使命、とも言える感情が芽生えたのである。           

「詩音に『逢いに』行こう。詩音と歩いた『道』をもういちど、訪ねてみよう」    

それは拓人にとって、永年の躊躇からようやく解放された「必然」であるようにも思えた。
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