* 後半部分、若干R - 18 表現アリ、です。苦手な方、ご注意ください。



6. 「 Catherine 」   - キャサリン -









自分自身に正直であることはなんと困難なことだろう。

他人に正直である方がはるかにやさしい。


――― エドワード・F・ベンソン  ―――







「今度の人、辞めて貰えない?」
「…Why not ?」
「あなたの幼馴染だから余り悪く言いたくはないんだけど…その…彼の料理が口に合わないの」

" 私を見る彼の眼つきが嫌なの " ――― 喉元まで出掛かった本当の理由を飲み込み、彼女は隣に横たわる夫の顔色を伺うように視線を上げた。
「美味しいってあれだけ褒めてたじゃないか。何で今更?」
「…不味くはないわ。でも…」
「じゃああいつと直接交渉するんだな。好みの味にしてくれって」
「ねえ、フィル――」
「――疲れてるんだ、キャス。いい加減にしてくれないか」
そう言って背中を向ける夫に心の中で溜息を吐き、彼女はダウンケットの間から覗くその広い背中を暫くの間眺めていた。

ほどよい筋肉が付いた、滑らかな肌。この背中に縋るようにしがみ付き、毎晩のように身体を揺さぶられたあの日々は幻だったのだろうか。
今では忘れた頃に事務的に私を抱く夫。出掛ける時や息子の前で彼は、愛してるよ、とちゃんとキスをくれる。そしてその度に気まずそうに視線を外す。
たった今、後ろからこの背に抱き付いて、愛してる、と口付けたならこの人はどうするだろう。振り返り、私を抱いてくれるのだろうか。
それとも、やはり…私を拒絶するのだろうか。

―――試してみようか―――

彼女は恐る恐る夫の背中に指先を伸ばし、触れる直前にそれをぎゅっと丸めて引っ込めた。そこに見覚えの無い小さな新しい傷を見つけたからでもなく、夫から寝息が聞こえ始めたからでもない。
たとえ義務的でも、彼の方から私を求めてくれることに変わりは無い。
でも自分から求めてそれを拒絶されてしまうのは、余りにも―――
やがて諦めたように夫の背中から視線を外して寝返りを打ち、彼女は漸く瞳を閉じた。

夫が連れてくるのは毎回、若く性的な魅力に溢れたルックスの良い料理人ばかり。前の料理人のスティーブもそうだった。その前の二コラという男も。つい最近夫が連れてきたショーンという男も同じ類の男だ。今までと違っていたのは夫の友人だということ、私とも面識があったこと、ただそれだけ。
彼は何か言いたそうな、含みのある眼でいつも私を見ている。まるで私を見定めするかのようなその視線は、友人の妻に向ける類のそれではない。
男に欲望を含んだ視線を向けられることは時として、女にとって喜ばしいものだ。自尊心をくすぐられるし、女としての魅力を認められたような気になる。 だからそういう視線ならば甘受するのに。
でも彼が彼女に向ける視線は性質の悪いものだった。一体何を考えているのかが読めないのだ。
そればかりか彼は時折、憐れな者を見るような、同情を含んだような眼を彼女に向けることがある。
彼のそんな瞳に出会うと心底不安な気持ちになってしまう。決して好意的とは思えないそれらの視線が居心地悪くて堪らない。けれど彼は夫の幼馴染だし、息子も日毎に彼に懐いていくばかり。息子が楽しそうにしているのを見ると、面と向って嫌とも言えないでいる。
でも彼のそんな視線そのものよりも、夫が毎回そういう男ばかりを連れて来る、そのこと自体が彼女には我慢ならなかった。料理人は自分で選ばせて欲しい、そう何度頼んでも夫は首を縦に振ってはくれない。口の肥えた夫には私の選ぶ人間など当てにならないらしい。
じゃあ何とか時間をやり繰りして自分で作るわ――― 一度彼にそう言ってみたことがある。
自分の妻にそんなことはさせたくない――― 夫はそう言って譲らない。君に料理は無理だと、そうはっきりと言ってくれたほうが余程ましだった。
あのショーンという男さえ辞めてくれれば、今より少しは心が平穏でいられるかもしれない。
そう思って打診してみたけれど、夫は話すらろくに聞いてくれなかった。それならば、女性の料理人にしてもらうのはどうだろう?そうだ、それがいいわ、今度はそう提案してみよう。
とりあえず週末にはショーンに会わずに済むけれど…そこまで考えて彼女は明日土曜の夜のパーティーの予定を思い出し、着ていくドレスやアクセサリーについて考えを巡らせることで、とりあえず眠りに就くまでの時間、鬱々とした気分を紛らわせた。つまり彼女はその夜、いつものようにこっそりとキッチンに忍び込み、夫に隠れてナイト・キャップをあおることなく眠りに就くことが出来たのだった。








翌朝目覚めると、いつものように既に夫は起き出していた。アパートメントの地下にある住人専用のプールで泳ぎ、トレーニング・ルームで軽く汗を流すのが彼の毎朝の日課だったからだ。
そんな健康的な日常を送る夫と違い、毎晩こっそりとあおる酒のせいで毎朝のように寝起きのすっきりとしない彼女だったが、その日は珍しくすっきりとした目覚めだった。 何だか頭が軽い気がする。昨夜はぐっすりと眠れたということかしら? ―― そんなふうに思いながら彼女はベッドを抜け出した。
食卓には彼女の大好きな花々と共に、色とりどりのフルーツやサラダが並べられている。
そこにキッチンから漂ってくる、パンケーキを焼く甘い匂い。
いつものように新聞を読みながら息子の話に耳を傾ける父、 息子の食の細さを気にしてあれこれと口喧しく忙しない母、パンケーキにかけた大好きなメープルシロップで口の周りをべたべたにしながら嬉々としてはしゃぐ息子。
いつも通りの幸せな朝のひと時。一日の中で家族3人が揃って顔を会わせることの出来る、とても大切な時間だった。 パーフェクトな朝だわ――彼女はそう思った。少なくともその瞬間だけはそう思えたから。

――「ナディア、もういらないから下げて」
「レイ?ダメよ、ちゃんとトマトも食べなさい。それになあに?そのサラダの食べ方!どうしてレタスの芯だけ残すの?」
「だってにがくておいしくないんだもん。トマトもやっぱりいや!」
「レイ?この間ママとお約束したでしょう?せめて朝だけでもちゃんと残さずに頑張って食べるって」
「だって…」
「じゃあ苦いお薬を増やしてもいいのね?ママ、ジョーンズ先生にお願いしてお薬をいーっぱい増やして貰うわね」
「いやだよ、ママ!おくすりはもっときらい!」
「じゃあママとお約束したように――」
「――もういいじゃないか。そんなに沢山食べられるようになったなんて偉いぞ、レイ」
「フィル!」
「ほんとう?ダディ!」
「ナディア」
フィリップは非難するような妻の視線を無視して家政婦を呼び、息子を食後の歯磨きへと連れて行かせた。
「…あなたっていつもそう。あの子に甘すぎる」
「たかだかトマト1、2個のことで朝から大騒ぎする君が神経質過ぎるんだ」
「! …随分ね。好き嫌いなく何でも食べて元気な子に育って欲しいって、そう願うことが神経質なの?ジョーンズ先生だって――」
「―― 実際少しずつでもレイの食事の量は増えてるじゃないか。それに成長していくうちに好き嫌いなんて無くなるものだ。焦るなよ」
「…成長?」
「……」
「…そうよね…トマト1個食べようが残そうが、確かに何も変わらない。夜も朝もいつだってあなたは私の言葉を最後まで聞いてもくれないけど、 きっとこの先もそれは変わらない。同じことよね。よく解ったわ」
「……」
気まずい沈黙がダイニングルームの温度をどんどん下げていく。うんざりした顔で手にしていた新聞を置き、フィリップは席を立った。 テーブルに一人残された彼女は、祈りを捧げる時のように組んだ手を額にぶつけるようにしながら唇を噛み、瞳を閉じて大きな溜め息を吐いた。
「…奥様?」
気遣うような声にはっとして顔を上げると、もう一人の家政婦であるメアリーの心配そうな顔がそこにあった。
「ご気分でも悪いのでは?」
「ああ、いえ、大丈夫よ。何でもないわ。ごめんなさいメアリー、もう全部下げてもらえる?」
「畏まりました、奥様」
メアリーがテーブルを片付け始めた時、テラスの方から鳥のさえずりが聞こえてきた。席を立ち、テラスへ出るための大きな扉を開くと、 冷たい風が彼女の金色の髪を巻き上げ、熱くなっていた頬の温度を下げていく。
薄手のシルク製のガウン一枚を羽織っただけの彼女は両腕を摩りながら足を進め、木々や色とりどりの花達の様子を確かめながらテラス内を散策していた。
「奥様!」
声に振り返るとナディアが血相を変えてひざ掛けを片手に此方へ向ってくるところだった。
「またそんな薄着で!風邪をひいてしまいますよ!」
「ありがとう。でも心配いらないわよ、ナディア。ほら、今日はとってもいいお天気だもの」
「いいえ、まだまだ春は先、風は冷たいですよ!奥様が風邪をひいて旦那様や坊ちゃまに感染(うつ)りでもしたらどうします!」
「…そうね…気をつけるわ」
「さあ、奥様。温かい紅茶をお持ちしますね」
ナディアに背を押されるようにしながら彼女は家の中に戻った。
私にはもう、風邪をひく権利さえもないのね。
ナディアの淹れてくれたアール・グレイを飲みながら、彼女は自嘲するように薄い笑みを浮かべた。
ふと、夫がテーブルに残していった新聞が目に留まり、彼女はそれを手にとった。父もこうして毎朝の食事時に新聞を読んでいたけれど、男は同時に二つのことを進められないのに、どうして皆朝食をとりながら新聞を読むのだろう。
それとも男というのは朝食をとりながら新聞を読むものだと刷り込まれているのだろうか。新聞も読まずに朝食をとるなんて男としての沽券に係る、とでも言いたげに見えて、少し滑稽に映る。

" 自分自身に正直であることはなんと困難なことだろう。 他人に正直である方がはるかにやさしい。 "

一面を暫く読み進めていると、紙面の端っこのほうに書かれた一文が目に飛び込み、虚を突かれたように彼女は瞳を見開いた。まるで見知らぬ誰かに心を見透かされ、それを言い当てられたみたいに胸の中がざわざわと音を立てて揺れている。どうしてそんなふうに感じるのかは解らない。ただ何となく居心地が悪くなり、彼女は自分も出かける仕度を始めることにして席を立った。
「ママ、ダディが出かけるよ!」
そこに現れた息子に手を引かれながらエントランスに向うと、既に第2秘書のヴァレリーが、エレヴェイターを待ちながら夫とその日の予定について話しているところだった。 迎えの車の中で大人しくボスを待つという考えは、彼女・ヴァレリーにはないらしい。1分1秒でも無駄にしたくないのは解るけど、 家族の朝のひと時くらい遠慮してくれればいいのに、と苦々しく思いながらヴァレリーと軽く挨拶を交わす。
「キャス」
「?」
「今夜のパーティーだが、行けそうにない」
「――!? そんな!」
「どうやら予定が変わってしまいそうだ。連絡させるよ」
「ねえ、フィル――」
温度の無い冷たいキスだけを唇に残し、振り返ることもなく夫はヴァレリーと共にエレヴェイターの中へと姿を消した。

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