「――― どうしたの、お洒落しちゃって。もしかしてデートだった?」
開かれたドアの向こうに立つ女が、からかいを含んだ声で彼を出迎える。いつものように挨拶のキスも無し、ハグも無し。
だがそれは彼らふたりの間では 『 礼儀 』 であり、また相手に対する 『 敬意 』 の表れでもあった。
「それなら来ないよ」
「どうかしら。振られた腹いせに寄ったかもしれないじゃない?」
ふん、と鼻を鳴らして女の後に続く。
シャワーを浴びたばかりなのだろう。好ましい残り香がさっきまでの苛々とした気持ちを和らげるようだった。
料理など殆どしない女には不相応な、立派すぎるキッチン。そこを通り過ぎる度に軽いジェラシーのような気持ちを覚える。だからといって彼好みのキッチンという訳では決してないのだが。
彼はジャケットを脱いで適当にソファの上に投げ、外した腕時計を壁際のコンソール・テーブルの上に置いた。
どうぞ、と言う声に振り返ると、差し出されたグラスには赤い液体が注がれている。それを目にした瞬間昼間の出来事が甦り、シェリー …かどうかは解らないが、「美味しい」と笑った彼女の顔がふっと浮かんだ。
何故か心がざわつくのを感じ、それを払拭するように、彼は目の前の女へと視線を戻す。
深紅のシルクのローブから覗く豊満な胸元、十分に手入れの行き届いた素肌から漂う妖艶な香り。慣れ親しんだそれを目にし、どことなくホッとしたような思いで彼は言葉を返した。
「あんたこそ。土曜の夜に俺を呼び出すなんて。さては男に逃げられた?」
「ふふ」
軽くグラスをぶつけ合い、互いににやりと笑ってそれを味わう。いいワインだ、そう言おうとすると、先に女が言葉を発した。
「言っておくけど、逃げられたんじゃないわよ。棄てて来たの」
「?」
「だって今日の坊や、可愛いばっかりで全然満足させてくれないんだもの」
ヒュー、と口笛を吹く彼に向い、女がにまり、と笑う。
「それであんたに会いたくなった、ってわけ。 いいえ、最初からあんたを誘うべきだったわ」
「…そう。それは光栄だね」――― そう薄く笑って、彼は赤い液体を再び舌の上に流し込んだ。

さっきのボンベイ・サファイアが今頃になって効いてきたのだろうか。急に視界がぐらぐらと回り始めた。
どういうわけか、目の前に居た筈の女は消え失せ、そこには昼間の彼女が立っている。
いつここにミス・シェリーが? …ああ、俺は一体何を?
「――でも土曜日だし、まさかこんなに直ぐ来るとは思わなかったわ――そうだ、お腹空いてる?」
振り返ろうとした女を後ろから抱き締め、男は白い首筋に唇を這わせ始めた。
「…ああ、飢えてる…」
「もう、相変わらずせっかちね」
女の手からグラスを奪い、ひと口その赤い酒を含んだ男が、口移しにそれを女の唇へ注ぎ入れる。
「んん…ふふ…」
芳醇な味のキスを交わしながら、グラスの中の液体と同じ色に塗られた指先が、男のシャツのボタンを慣れた手つきで外していった。