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あの後、猛ダッシュで電車に飛び乗った私を、彼はさすがに追っては来なかった。

当たり前だよね。追っかけられたら何事かと思うわよ。

だけど、いろいろグルグル考えているうちに夜中は過ぎていて、ほとんど眠れなかった。

だから今朝は何となく重い足取りで出社して、秘書課のドアを開けると、葛西主任がフロアの中央で書類を見ているのを見つけて溜め息をつく。

「おはようございます」

「おはようございます。山根さん」

眼鏡を人指し指で直して、葛西主任は眉を上げた。

「珍しいですね。山根さんが髪を下ろしているのは」

「今朝は寝坊したんです」

葛西主任は無言で、他に誰もいない秘書課を見まわす。

「……意味を伺っても?」

「タクシーの中で化粧もして、いつも通りの時間帯に間に合いましたと言い訳します」

日課なのよ。まだ誰もいない時間帯に来て、デスク回りを掃除するのよ。

どこか納得したような主任に背を向け、デスクにバックを置いて、引き出しからヘアゴムを取り出した。

手早く三つ編みにしてまとめると、書類を眺めている主任に近づく。

「予定表ですか?」

「はい。少々変更がありまして、どなたに……」

言いかけて、主任は私をまじまじと眺める。

「山根さんは高野商材の高崎さんとは懇意にされているんですよね?」

え。懇意にはしていませんが。
誰からそのような噂が流れましたか。

「羽賀部長から伺いました。新規プロジェクトを立ち上げるとの事で、なおかつ、こちらから一人出せと命令されました」

「……珍しく怒ってますね」

誰に対しても丁寧な言葉づかいの主任が“命令されました”とか言ってる。

「遠慮がないのは昔からですが、デート中に乱入されました」

これは……冷静にのろけられた?

「いつになく私的ですね、主任」

「僕はいつも私的ですよ。私生活あってこその仕事ですから」

「では、話の流れついでにお願いがあります」

無言で見つめあって、それから両手を合わせる。

「高野商材絡みの一人出せなら、辞退させてくださいー」

葛西主任が目を丸くした。