その愛の終わりに
師走に
壱
「もし……俺のほうが早くあなたと出会っていたら」
「やめて!」
その続きを聞いたら、もう後戻りは出来ない。
そんな予感がして、美都子は精一杯声を張り上げた。
「後生ですから、それ以上は仰らないで」
義直に裏切られたばかりだというのに、いや、だからこそ、山川の言葉は美都子の胸を抉った。
こんな誠実な男性が夫なら、どんなに良かったか。
「すみません……困らせるつもりはなかったんです。余計なことを言いました。忘れてください」
山川は焦ったような声でつけ足した。
「風呂に行きます。あなたも、冷えた体を暖めたほうがいい」
そして早口でそう言うなり、浴衣を抱えると、ぎこちなく部屋を出ていった。
その時、白磁のような顔がうっすらと赤く染まっていたのを、美都子は見逃さなかった。
見てはいけないものを見たのだと、本能的に悟る。
山川がいなくなっても、美都子は顔をそらし続けていた。
物音一つしない静まり返った部屋で、美都子は胸の高鳴りを実感した。
男性が顔を赤らめているのを見たのは初めてだった。
今、山川が自分のことをどう思っているのか、なんとなく察しがつく。
どんな言葉よりも雄弁なあの表情に、美都子は胸が締め付けられた。
しかし、濡れた衣服を着替えようと浴衣に手を伸ばしたその時、ダイヤモンドの輝きが目に飛び込む。
美しくも重たいその楔を見て、美都子はだんだんと冷静さを取り戻していった。
そして大浴場で体を洗い、暖かな湯船に浸かっている間も、自分の立場の危うさについて考えた。
人妻が、未婚の男性と二人っきりで宿にいるということの意味。
例え肉体関係がなくとも、この現場を見られたら破滅が待っている。
今すぐここを離れなくてはならないと、頭ではわかっていた。
しかし美都子の中のもう一人の自分が、ここに居たいと訴える。
不誠実だった夫に義理を果たす必要なんかない。
今日だけは自由に過ごすと決めたのだ。
色々な言い訳が頭に浮かんでは消えるが、風呂上がりに一階の休憩所で一息ついていると、窓に叩きつける雨粒の勢いが強くなっていった。
きっと今、無理やり外に出たところで風邪を引くだけだ。
そう己に言い聞かせ、美都子は部屋に戻った。