Poisony Poison Girl
第二章 数週間後
数週間後のある一日、僕が毒素さんのもとをヴィジティングしたのは午前七時だった。自分の朝食(食堂のトーストとサラダ)を摂ってから毒素さんの部屋へ向かった。
 インターホンを押しても反応がない。部屋の外にあるモニターには、部屋の隅のベッドで横になる毒素さんが映っていた。
「毒素さーん、入りますよー?」
 部屋に入って声をかけてみる。おはよーございまーす。朝ですよー。返事がない。ただの屍のようだ。
「毒素さーん…寝てますねこれは」
 毒素さんは柔らかいベッドで屍になっている訳でもなく普通に寝息を立てていた。長い睫毛の生えた(もちろん紫)両の瞳はしっかりと閉じられている。起きないかなーと十秒ほど眺めていると、小さな寝言と共に寝返りをうった。今、確かに毒素さんは「塩ビ…」と言っていた。艶美とか燕尾とかEnvyかもしれないが。
 こうして快眠に浸っている毒素さんを見ると、幸せそうだなとか思ってしまう。自由に人に触れることもできない彼女が、幸せなはずないというのに。
 ここで突然の毒素さんが見ている夢を想像してみようタイム。どんな夢を見てるのだろう、推理小説みたいな探偵になって見事な推理で犯人を突き詰める夢かな、紫の馬に跨って草原を駆け抜ける夢だったらおもし腹筋に毒素さんの肘鉄をくらった。
「ぐはっ……」
 突然腹筋に痛みが走る。朝の想像の時間は儚くも終了する。毒素さんはベッドから飛び起きたようだった。また次の想像タイムでお会いしよう。
「いやなんで飛び起きる動作でエルボーできるんだ…」
「あ、お兄さんおはよう」
「あー、ああ、おはようございます」
 震える横隔膜に無理やり指示を出しながら毒素さんに朝の挨拶を告げた。引き攣り笑いのまま、今日も毒素さんが元気な事を確認した。

本日も先日の繰り返しで、体温測定→朝食摂取→予定確認となるわけだが、最後の項目でいつもと違う所があった。
「毒素さん、今日は午後から所長がお見えになりますよ」
「じゃあそれをキャンセルしたら用事ないのよね」
「あからさまに拒否しないでください」
「お父さんねえ。あの人全然私に構ってくれないから、私最近ムスッとしてるのよね。娘だけに」
 地味なギャグ要素はスルーするとして。
「ムスメッ」
 引き摺るな。笑ってやるから。あはは。
「ではそれも含めて久々に仲良くすればいいじゃないですか。親子水入らずで」
「何言ってんのお兄さんも同席なさいよね」
「日本語が微妙ですよ。僕が同席したことで何のメリットも見当たりませんが」
「えー」
 子供っぽい反応を頂いた。目がうるうるしていて、眉(紫)が垂れ下っている。しょぼんの顔文字を具現化したらこうなるのかな。
「この部屋、基本私とお兄さんのふたりしか入らないじゃない?後はたまーにルイお兄さんが本を持ってきてくれるけど…お父さんは滅多に来ないのね、だから久々に来てくれて賑やかでイエーイとか思ったのよね」
 台詞の後半に幼稚さがダダ漏れだが指摘せずに放置しよう。要するに毒素さんは退屈で退屈でさらに言うと寂しかったのだ。同情はしないが、哀れだとは思ってしまう。
「では私も同席ということで」
 流石に所長も僕に部屋を出ろと言わないだろう。毒素お嬢様の仰せの通りに三人仲良くしようじゃないか。
 因みに今日の毒素さんの髪型はツインテール。八十五点を有難く頂戴した。動物みたいで可愛いと本人は言っているが何の動物なのかは僕にはさっぱりわからない。髪形のおかげで幼さが二割増しだった。
 僕と毒素さんは午前中を駄弁って過ごすことにした。

「こないだ本で読んだんだけどさ、シュレディンガーの猫ってあるよね」
「量子力学ですか」
「うん。《あらゆるものは観測されたときに状態が決定し、それまではどんな状態なのか曖昧である》っていう考え方だよね」
「シュレディンガーの猫はそれを否定する実験ですよ」
「そうなの?肯定するのかと思ってたよ」
「……毒素さん、シュレディンガーの猫、説明できますか?」
「あー、いや、ちょっと自信ない、かな?」
「……」
「お兄さんはできるのよね?科学者なんだし当然よね」
「僕は専門が生物学なのでシュレディンガーの猫は専門外ですが…説明は一応できますよ」
「言ってみてよね」
 何故に上から目線なんだ。
「シュレディンガーの猫は先ほども言ったように、量子力学の《あらゆるものは観測されたときに状態が決定し、それまではどんな状態なのか曖昧である》っていう考え方の否定論で、シュレディンガーが考えた仮想実験です」
「仮想なのよね、実際にはしないの」
「そうですね。実験内容は簡単です。箱の中に猫、ラジウム、ラジウム検出装置と、ラジウムの検出に連動して青酸が噴出される装置を入れます」
「ほうほう」
「ラジウム検出装置は、一時間以内にラジウムが検出される確率を五十パーセントにな
よう調整します」
「それで青酸が噴出される確率も五十パーセントね」
「そうです。ついでに噴出された青酸で猫が命を落とす確率も五十パーセントですね。そして箱に蓋をして一時間待って、ラジウムを検出して噴出した青酸で猫が死んでいるのか、ラジウムが検出されず猫が生きているのか、という実験です。毒素さんはどう思いますか?」
「…生きてて、欲しいよね。お兄さんは?」
「僕はマイナス思考なので残念な結果のほうを気にしてしまいますね。さて、一時間経ちましたよ。まだ箱を開けていません。箱の中の猫はどうなっているでしょう?」
「見てないからわからない、ってことかな」
「正解です。まだ猫の観測はしていませんから、箱の中の猫は《半分生きてて半分死んでる》ということになるらしいです」
「なにそれ、おかしい」
「でしょう。シュレディンガーは、そんなおかしなことあるはずないと、この仮想実験を唱えたのです」
「そうね…。現在の観測で過去が決まるなんて因果関係が崩壊してるじゃない」
「結局、毒素さんはシュレディンガーの猫を知らなかったということでいいのですか」
「再確認しただけってことで…」
 やれやれ。ひとつ勉強になった。

箱の中の猫は生きていたことにして、ランチタイム。毒素さんのどどめ色な捕食行動を傍観した後は白衣の廃棄と消毒シャワーを経て昼休みに入る。しかし僕は研究以外では暇人なので、食堂で昼餉(日替わり定食、本日はタラレバなり)を味わった。一緒に食べようとルイを探したが見当たらない。昼食を抜いてまで研究しているのだろう、一番あり得そうな事情だった。皿を空にして食堂のおばちゃんを喜ばせた後はすぐに毒素さんのもとへ直行した。部屋を片付けて所長をお招きする準備をしなければ。

インターホンを押す。
「毒素さーん入りますよー」
「ちょっと待って、緊急事態ー」
「は?」
「安全マスク付けて入ってー」
「わかりましたー」
 インターホンの応対の会話の語尾が延びてしまう謎はみんなも経験したことがあるだろうか。安全マスクを装着して部屋に入った。
「ほらみてコレ」
「なんですかコレ…」
 毒素さんが部屋の隅を指さしていた。そこにはキノコが落ちていた。
 …キノコが、何故か、一本だけ、無機質な床に、落ちていた。
「……」
「ベニテングタケだと思うよ。毒キノコなんだよね。小さくて可愛いのよね」
 ベニテングタケ。担子菌類ハラタケ目テングタケ科、学名はA marita muscariaと名付けられている、日本ではポピュラーな毒キノコだ。毒性は弱め。古来からハエ取りに使われる。毒素さんの毒でハエなぞ一匹残らず殲滅できるこの部屋に、わざわざハエを取りにきたのなら余計なお世話キノコだ。
「……」
 いやそんな話じゃない。僕は無言のまま、可愛いと賞されたベニテングタケに嫉妬を覚えながらそいつを拾い上げ、壁に設置されたダストシュートに放り込んだ。バスケットボールの試合だったらスリーポイントだ。ナイッシュー。毒素さんを隣接した彼女専用バスルームに避難させ、壁のボタンを押して部屋に消毒用のミストを噴出した。
 毒人間の前で行ったキノコの消毒作業を疾風迅雷のごとき早業で終了させた後、バスルームから出て来た当の毒人間は少し悲しそうだった。
「可愛かったのに…」
 毒素さんってそんなにキノコ好きだったっけ。僕は安全を確認してマスクを外し、キノコ事件をメモにとった。詳細不明だが安全面では問題ないだろう。
「所長が来る前に片付いてよかった…」
「キノコ…」
 相変わらず涙目な毒素さんを運命はスルーするように、部屋のインターホンが鳴った。
「私だよーう」
「はーい」
 毒素さんはキノコのことを完全に忘却したかのように、三連符でも付属してそうなどちらかと言えばオレンジ色の声で返事した。しかし所長でもインターホン応対のときには語尾が延びるのか。もともと間延びした喋り方だとは思っていたがインターホン越しだと際立つ。意外だ。メモメモ。
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