桜前線が北上し始める一か月ほど前、わが社の社員たちは不安と期待の渦へと巻き込まれる。

毎年のことだとはいえ、その渦中に巻き込まれたいと思う社員はきっと少ない。
それもちょっと違うかな。

巻き込まれることで出世するのならば喜んで、という社員もたしかにいるのだから。

サラリーマンとしての人生を謳歌しようとするのなら、やはりひとつずつ階段を上がってお給料アップを狙うのは当然のこと。

「異動」という響きに後ずさるか積極的に一歩前に踏み出すか。

どちらにしても、社命に逆らうことなどできないとわかっているから結果は同じ。

それならば器用に受け止めて、さらりとその渦に巻き込まれるほうが、賢い。

「そんなこと、ちゃんとわかってるけどさ、出世にはまったく関係のない場所で地味に仕事をしている私までがどうして召集されるわけ?」

「上司が綺麗な奥さんを自慢するために開く宴会で酒を飲むと思えばいいだろ? 深く考えるなよ」

「酒を飲むだけってねえ、私はこうして運転してるんだから飲めるわけないでしょ」

「そうだったな。俺の専属運転手の七瀬には、帰りに「ルイルイ」のフルーツタルトを買ってやるからそれで我慢しろ」

陽太のその言葉を聞いて、ハンドルを持つ手に力が入った。

私は赤信号で止まるとすぐに、体ごと陽太に向き、助手席に体を預けている陽太をじっと見る。

私に運転を任せて寛いでいるその様子に少々むかつくけれど、小さな顔と長い手足に見惚れないように気持ちを強くして、口を開いた。

「ルイルイのフルーツタルト、ホールで」