マサトの病室を出た途端、駆け寄ってくる軽やかな足音にユカは気づく。
「ユカ!」
「シイナ」
「どうして医局に来たの? 用はもう済んだ?」
 腕にしがみつくシイナに、ユカは微笑み返す。
「シイナったら、またそんな恰好で」
「だって、こっちのほうが動きやすいんだもの」
 襟足の長い髪以外は、男物の服を着ているため一見すると可愛らしい少年にしか見えないが、シイナはユカと同じ女性だ。
 しかし、完全な女性体ではない。
 染色体性半陰陽であるシイナは女性体でありながら子宮を持たない。
 当然ながら子供を産むこともできない。
 それでも、自分がいるのだから、シイナは義務を果たす必要はない。
 世代の離れたこの子供を、残された大人達は皆大切にしていた。
 もう産まれないかもしれない最後の子供だから。
「シイナはもう学習は終わったの?」
「ええ。だから、来たの。ユカと話をしたくて」
 甘えるように見上げてくるシイナに、ユカは嬉しさを隠さない。
「最近、学習ばかりで全然ユカに会えなかったでしょ? 今日は一緒に夕食を食べましょう? 私の部屋で」
 断られると思ってもいない声音。
 勿論、ユカには断る気はない。
 シイナの願いは、できる限り応えてやりたいと思っていた。
 この美しい少女は、まだ十三歳という年齢ながら、医学博士としての資格も有し、生物学や薬学などにも興味を持ち、勤勉であった。かといって奢ることもなく、朗らかで誰をも惹きつける魅力をもっていた。
 生殖能力がなくとも、誰もがシイナを愛し、大切にせずにはいられなかった。

「シイナ、ユカも忙しいんだ。あまり煩わせない方がいい」

 背後からかかる声に振り返ると、ユカと同世代の少年――フジオミだった。

「大丈夫よ、フジオミ。私もシイナとおしゃべりをするのが好きだから」
「ほら、ね」
 無邪気なシイナに、フジオミは静かにため息をついた。
「フジオミは? 学習は進んでいるの?」
「変わりないよ。いつもと同じ」
 冷めた口調だが、ユカにはわかっている。
 シイナと同じ世代の最後の子供であるフジオミは、最後であるがゆえに最も早く大人にならねばならなかったことを。
 最後の希望として生まれたが故の重責。
 それは、最後の女性体として生まれたユカが担う重責と同じものだった。
 美しく聡明に生まれついた彼は、その重責故に必要以上の感情を表せない。
 怜悧で退廃的な雰囲気を纏いながら周囲の期待に応え続ける。
 だからこそ、ユカはフジオミを見るたびに思う。

 彼もまた、愛し、守るべき大切な子供だということを。

 だが、同年代のシイナにはそんなユカの思いには到底至れない。
 すねたように返す。
「フジオミはいつもそうよ。つまらない男だから」
「支障はないよ」
「そうよね。そんなフジオミに付き合えるのは私しかいないし」
 シイナがからかうように笑うと、フジオミが肩をすくめる。
 それでも、不快ではない空気が二人の間を流れている。
「――なぜ笑っているの? ユカ」
 ユカの様子に気づいたシイナが不思議そうに問う。
「あなたたち二人に会えて嬉しいからよ」
 きっと母親とは、こんな感情を持つのだろう。
 愛しい子の幸せな様子を、いつまでも見ていたい。
 ただそれだけで、笑みがこぼれるのだと。
「じゃあ、フジオミも一緒に行こう、どうせ夕食まではもうすぐだし。久しぶりに三人で食べられるわ。いつも二人だったし、ユカの話も聞きたいもの」
「ユカ、予定は大丈夫ですか? シイナの我儘につき合わせてすみません」
 フジオミにも、すでに夕食はユカと食べることが決定事項になっているらしい。
 確かに、シイナには誰も――フジオミでさえ逆らえない。
「勿論、大丈夫よ。あなたたちと久しぶりに夕食を一緒にできるなんて嬉しいわ」
 三人で一緒に居住区へ向かう。
 移動から、部屋に入ってからも、シイナのおしゃべりは尽きなかった。
 話題も、他愛もない日常の事柄から、今自分が取り組んでいる研究まで多岐に渡り、聞いているだけで退屈する暇がない。
 隣で静かに聞いているフジオミが時折相槌を打ったり応えたりする。
「今は、私、ヒロセの助手を務めているのよ。ヒロセの手が回らない所を、私が担当しているの」
「ヒロセの邪魔になっていないのか? なんにでも首をつっこみたがるのは相変わらずだな。そのうち大きな失敗をしないといいけど」
 応えるフジオミの声音には相変わらず抑揚も感情を表す表情もない。
「失礼ね、私ほど優秀な助手はいないって、ヒロセは褒めてくれたわ。引退したら、医局長は私だって。だから、今は産科の勉強もしているのよ。資格を取ったら、私がユカの診察をしてあげる。やっぱり診察は女医がいいわよね、ユカ」
「ふふ、そうね。あなたは優秀だから、安心して診てもらえるわね。楽しみにしているわ。がんばってね」
「ほら、私のこときちんと評価してくれないの、フジオミだけよ。身体を壊しても診てあげないんだから」
「それは困る。僕が早死にしたら君は独りになるぞ。それでも構わないのか」
 思いがけない言葉に、ユカが眉根をよせる。
「それは私も困る。ただでさえ、男の寿命は短いのに。ダメよ、フジオミ。長生きしてくれなきゃ」
「だったら、仕事はほどほどにして、きちんと僕の面倒を見てくれ」
「わかった――絶対、少しでも具合が悪かったら言うのよ。今はどう? 気分は悪くない?」
「君がきちんと僕の目の届くところにいてくれれば、気分が悪くなることはない」
 フジオミが無感動に言い、隣のシイナの腕に触れる。
「何よ、一緒に学習したいっていつも言ってるのに、私をおいていっちゃうくせに」
「それはしかたがない。その時間以外は傍にいてくれ」
 表情には出ないが、フジオミは確かにシイナを大切に思っている。
 シイナもそれがわかっているからか、機嫌を直してフジオミに笑いかける。
「仕方がないわ、私が折れてあげる。フジオミは私の未来の伴侶だから、大切にしないとね」
「そうしてくれ」
 食事が始まっても、いつもの食堂での食事と違い、あたたかな雰囲気に、ユカの食も自然と進む。
 これが、家族というものなのだろうかと、ユカは思う。
 だとしたら、以前の世界はなんと希望に満ち溢れているのだろう。
 誰もがこんな風に愛しい者と温かく幸せな食卓を囲み、日々を過ごすのだろうか。

 明日も同じ日々が続くと信じて疑わずに?

 そんなはずがない。
 誰もが幸せだったなら、こんな未来にはなっていない。
 きっと、孤独の内に一人死んでいく者もいれば、家族に囲まれて一生を終えた者もいるのだろう。
 そうして、あらゆる種類の、あらゆる幸と不幸が入り交じり、複雑な紋様を描くように、今日の未来に至ったのだ。

 それでも。

 明るい未来を疑わないようなシイナの瞳。
 明るい未来など信じないフジオミでさえ和ませるこの少女が、愛おしかった。
 シイナがいれば、きっとフジオミは大丈夫だろう。
 こんな風に二人は時を重ねていくのだ。
 最後の世代。
 最後のアダムとイヴ。

 誰にも邪魔されることなく。
 何の障害もなく。

 それは、ユカの夢見る未来の一つだ。
 ただ二人だけで、幸福に生きられる幸せ。
 それを叶えられる二人を見ていたかった。



 食事が終わり、ユカがシイナの部屋を出て、自室へ向かう。
 部屋のオートドアの前にはササイがいた。
「ササイ――」
「食堂に来なかったな? 今まで医局にいたのか?」
「違うわ、フジオミとシイナと一緒にいたのよ」
「なんだ、そうか」
 ササイは、それ以上聞かなかった。
「じゃあ、今からは俺の時間だ」
「ええ」
 オートドアが開くと、ユカは中へ入る。ササイが続く。
「支度をしてくるわ」
 それだけ言うと、浴室へ向かう。
「早くしてくれよ」
 ササイは寝室へ向かった。
 中に入ると、歯を磨き、服を脱いでシャワーを浴びる。
 シャワーを浴び終えて、バスローブを身に纏うと、鏡の中の自分の顔を見る。
「――」
 笑っているのに、まるでフジオミのように無表情だと思った。
 無表情でも、シイナといた時のフジオミは幸せそうに見えたし、何より、そう感じた。
 自分は幸せなのか。
 否。答えは明確だ。
 何故なら、これは義務だから。
 彼女の務めなのだ。
 それ以外、ユカには存在意義がない。
 ユカは唇を噛みしめた。
 そして、義務を果たすために寝室へ向かった。
 早く日付けが変わることを願いながら。



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