平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
5.ソれは素敵な恋物語
5.ソれは素敵な恋物語


雨に濡れてしまったから部屋に戻るというわたしを、晃さんはなかば強引に、中休みに入っていた橘亭へと引っ張っていった。

「温かいもの淹れるから、座ってて」

わたしの頭に洗い立てのタオルをふわりと乗せて厨房へ行ってしまう。幸い、一番被害があった髪以外は、羽織っていたジャケットを脱いでしまえば大して濡れていなかった。
きっと、脩人くんの背が受けてくれたおかげだろう。

やがて店内にコーヒーの良い香りが漂い始める。

そういえばこの店に初めて入ったとき、ここでコーヒーを飲みながらまったりしたいと思ったんだっけ。
そんなに前のことではないはずなのに、ひどく懐かしく感じた。

「どうぞ」

コトリとカウンターに置かれたシンプルなホワイトのカップ&ソーサーは、褐色がよく映える。スティックシュガーと小さなピッチャーに入ったミルクもテーブルに並べられた。

「コーヒーなんて、メニューにありましたっけ?」
「今度、ランチセットに付けようかと思っていてね。上手に淹れられるように練習中なんだ」

晃さんは自分の分の大きなマグカップを持ってカウンターに背を預けて立つ。
熱いコーヒーは雨で冷えた身体を温めてくれたけど、舌に残る微かな苦味は心の中を表しているようで。だけど、その苦ささえ大切なものに感じるなんて、わたしはかなり重症だ。

「こんなに美味しいコーヒーなんか出したら、居心地良くなって回転率が下がりますよ」
「それは、嬉しいような困るような……。難しいところだね」

本気で困ったように眉を下げた。

コーヒーの香りと雨音だけの穏やかな静けさが流れる。
いつまでもこうしていたいと願ってしまいそうになって、自分から沈黙を破った。

「そういえば、希さんとバイトの人は?」
「希は、少し調子が悪いっていうから部屋で休ませてる。悠佳(ゆうか)ちゃんは大家さんちで、武志(たけし)くんにはお使いを頼んだんだ」

悠佳ちゃんというのは大家さんのお孫さんの女子高生で、武志くんはこのマンションで春から一人暮らしを始めたばかりの大学一年生だ。ふたりとも、大家さんがスカウトしてくれたらしい。

「ふたりともがんばってくれているから、助かってるよ」
「そうですか。……良かったですね」

こうして少しずつ確実にこの場からわたしの存在が薄くなっていく。それなのに、わたしの中で晃さんの存在は消えるどころか、姿を目にするたび、言葉を交わすたびに深いところへ染みついていく。
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