絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ

12月30日 友人としての苦しい見舞い

 12月30日。

年末最大の忙しさを乗り越えたらしい夕貴とのアポを取った榊は、駐車場で待ちぼうけながら久しぶりに煙草を肺に送り込んでいた。

 日本へ帰ると、いや、彼女に会うと何故か煙草を吸いたくなる。

 ロンドンまで追いかけてきた時もそうだ。ソファでピザを食べた後、露天のおまけで袋に入っていた木枠のパズルが解けなくて、煙草を吸った。あの時愛は、随分はしゃいでいた。そして俺にとっても、忘れ難いほどに楽しい夜だった。

が、その事も、今は忘れている。 

それでもまだ、我々はマシだ。

 存在すら忘れられている巽からすれば。

 この5年で彼女がどれほどの人間に出会ったのかは知らないが、おそらく巽が一番の存在であったに違いない。

 あの日も巽のマンションの階段で事故を起こしたというし。

 家族に記憶障害の可能性の説明をした後、巽にもその話をした。顔には出さなかったが随分ショックを受けている様子ではあった。この5年間、彼女が巽を想っていただけではなく、巽も同じ想いだったのだと確信した。

 それと同時に出たのが、

「念のために確認したいのですが、彼女の卵管は切られていますか?」

 という質問だった。

 最大の難関があったことを思い出した俺は、一度目を閉じた後、

「全身のMRIを明日撮ってよく確認してみないと分かりませんが、そういえばそんな話をしていましたね……。しかし、それは隠せるような事実ではありません。誰かが経緯を伝えてあげなれればいけません。それと同時に、再建手術ができるのかどうかも添えて。それがあるのとないのとでは全く違いますから」

「…………」

「ただ、彼女の場合は切断だと言っていました。それが本当なら、再建の可能性はもしかしたら低いかもしれません」

「…………」

「あなたのことは、彼女は今のところは全く覚えていませんが、そのうち何かの拍子で思い出すかもしれない。

……何故切断するに至ったのか、詳しい経緯は分かりませんが、再建の場合は力を尽くしましょう」

「……ありがとう、ございます」

 あの時の巽の顔は随分思い詰めていた。それもあり、とりあえずこの1週間は彼女の様子が安定するまでは面会をしない方が良いと伝えてはある。彼女にとって現在の巽とは、見ず知らずの男であり、しかも以前は恋人で、その仲のいざこざやホステスに落ちたことで卵管を切ったなど、即座に到底受け入れられるはずがない。

 コンコン。

 サイドウィンドをノックされて、ようやく夕貴の存在に気付いた。

 俺はガラスを下げると、「乗って」と一言かける。

「……」

 夕貴は何も言わずにベンツの右助手席にドサリと腰かけた。

「何?この暮れの忙しい時に……」

 さっそく文句を言い始めたが、こちらも午前2時を回ってだらだら話などする気はない。

「愛が事故に遭った。記憶喪失で、過去5年の記憶がない」

「…………え」

 夕貴が本当に驚いている時の反応は随分薄い。

「どんな事故」

「階段から落ちた。巽って人のマンションの階段から足を滑らせて10針縫うけがもだ。そっちは大したことないけど、記憶はここ3日戻ってない」

「戻るかもしれないってこと?」

「分からない。けど、巽さんのことはまるっきり忘れてる。出会ったのがちょうど5年前らしい」

「らしいって……ひょっとして俺のことも忘れてる?」

「いや、覚えてたよ。俺のことも、樋口のお嬢様のことも。ただ、ここ5年のことを忘れているということは、お嬢様に何があったかも忘れている。

しかし、記憶が勝手に戻る可能性もあるし、まだ分からないからな。でも、このまま記憶が戻らなかったら、いつかは誰かから聞くことになるだろう。その前に、俺達が伝えておいた方がいいと思う」

「嘘だろ……」

「お前が結婚したことも知らないよ。

 もちろん3人でロンドンに行ったことも覚えてない。

 この5年、彼女にとって色々あったようだから、その精神的なショックかな……いや、分からないけど。

ただ、はっきりしていることは、頭を打ったことが原因ではあるけど、傷が癒えたからといって、記憶が元に戻るわけじゃない」

「…………」

 俺は一気に言い切ると、夕貴の反応を待った。

「…………」

 彼は、ただ口元を押さえ、視線を下げている。

「退院するのは1月10日前後の予定だ。傷口が塞がって脳の状態が正常であれば、記憶がなくなったままでも退院させる。多分実家に戻るんじゃないかな。仕事は、まだ先だろうけど、宮下さんが早くに見舞いに来てたから、早い段階で仕事がしたいと言い出すかもしれない」

「…………今は、まだ病院?」

「そうだ。でもこの時間はさすがに寝てるよ」

 一目見たい気持ちは充分よく分かる。

「それでもいい、会っておきたい」

 榊は無言でギアをアクセルに入れた。

 会っておきたい、という言葉が妙に引っかかる。

「巽さんの記憶が戻ればいいんだがな」

「……悪い人じゃないけど、あの人に会って愛は少し変わったよ。この機に縁が切れた方がいいのかもしれない」

「へえ……。でもそんな雰囲気じゃあ全くなかったよ。彼も愛の記憶喪失を受けて、人が変わったようだった」

「…………ならいいけど」 

 車はしばらく走り、国立病院に着く。

「ん? 桜美院じゃないのか」

「まあね」

 2人は車から降りて、緊急通用口から入る。榊は受付にただ軽く右手を挙げるとすんなり夕貴を従えて奥に進んだ。

 寝ている顔、それだけ見たら安心して帰る気になるだろ……。

「……」

 夕貴の足音がしないことに気付いて振り返った。

 彼は、しばらく前から廊下の中央に立ち荒んでいた。

「……」

 榊が無言で元来た道を戻ると、

「……やっぱいい、帰る」

夕貴は小さくそれだけ言い、元来た道を戻り始めた。

 2人は無言で通用口から出る。外は風がなく、寒さにはまだ余裕があったが、それでもコートのポケットに手を入れずにはいられなかった。

「阿佐子を思い出した」

 突如、夕貴が口を開いた。

「はあ………」 

 その溜息は、深い。

 夜空は空気が冷たくて、澄んでいる。ずっと前から4人でこの空を見ていたはずなのに、何故こんなにも短い人生の中でうまくいかないことだらけなのだろう。

「俺は……あいつの幸せを願ってる。誰よりもだ、絶対お前には負けない」

 多分、空を見た夕貴も同じ事を思ったのだろう。そんな顔をしていた。

「俺も、愛の幸せは願ってはいるよ。その気持ちを誰かと比較したことはないけれど」

「…………イチイチ突っかかってくんな」

「…………、愛にとっての幸せが何なのか、今の俺には分からない。だけど、巽さんは必要な気がした。今まで何度か会ったなかで、そう思ったことはなかったけれど、今回はそう感じた。何かを覚悟した顔だったよ。

 それと同時に、愛のお父さんは毛嫌いしてたが」

「あぁ……。でも大丈夫なのかよ。全然覚えてないのに……」

「そうだな……ちょっと難しいかもしれないが……なんとか、してみるよ」


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