憑代の柩
霊――



 自分以外に生きている人間の気配のしないアパートの一室。

 ふいに、犬の遠吠えが聞こえてくる。

 夜になると、いつも聞こえてくるのだが、この近所の何処に居るのか未だにわからない。

 唐突に、遠吠えがやんだ。

 なんとなく、呼吸を止めて、身構える。

 空気が張りつめた気がしたからだ。

 アパートの外の廊下を歩く音が聞こえた。

 やけに響く。

 明日、持っていく予定のポーチを手に、洗面所に立っていた。

 洗面所は部屋の中程にあり、廊下とは離れた位置にあるのに、何故、こんなに聞こえるのだろうと思った。

 ゆっくりと、踏みしめて歩くような特徴的な足音。

 ポーチから取り出しかけていた小瓶を強く握り締め、息をひそめ、じっとしていた。

 案の定、この部屋の前で、ピタリとその足音が止まる。

 そのまま、動かない。

 まるで我慢比べのように、自分もまた、動かないでいた。

 そのとき、階段を上がって来る軽快な足音が聞こえてきた。

 ビニール袋のカサカサと揺れる音。
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