月と負け犬
それから、しばらくあの場所に行かなかった。
同級生たちから逃げていたのもあるし、学校を休んだこともある。不登校という手もあったが、それだけは避けたかった。両親の耳に何か情報が入ることを嫌ったからだった。
あの場所に足を向けたのは、結局一ヶ月ほど経ってから。

季節は変わり、初夏を感じさせる頃のことだった。

衣替えが終わり、薄手の半袖のシャツで過ごせるようになった。僕はこの時期が嫌いだし好きだ。水をかけられて震えることはないし、何よりすぐ乾く。でも密室に閉じ込められると暑くて死にそうになる。好きだし嫌いというのは複雑なことだ。

あれからあの場所に行かなくなってからは、旧校舎の階段に居場所を見つけた。

さっさと家に帰ることも出来ないので、そこでひたすら時間を潰して帰った。大抵は本を読んで過ごした。

旧校舎には人は来ない。来ても部活動を行う生徒だけだ。そしてこの階段には滅多に人が来ないことを僕は知っていた。埃が窓から差し込む光によって舞っているのが分かる。読み掛けの本に飽き、それから顔をあげてそれらを眺める。じっとりと汗をかくのがわかった。暑い。外では部活動を行う生徒達の声がする。何処かでは楽器の音。吹奏楽だろうか。その中でも笛のような音がして、僕は耳を傾ける。あの頃と同じようで違う。声が音に変わっただけだ。僕がひとりなのは変わらないが。その中に、カシャ、と音が突然混じって僕は反射的に目を開けた。

「あ、ごめんね」

済まなそうに言いながら笑うその人は、ちょうど僕の階段下から覗き込むような形で立っていた。手にはクラシカルな形のカメラ。一瞬、有り得ない光景に惚けたが、すぐに音の出どころだと気付いた。…まさか、撮られた?

「な、何…!?」

「ああ、だからごめんってば」

階段に膝を着いていたらしい彼女は、立ち上がる。スカートの裾を軽く叩いて、そして近寄る。僕に。

どういうことだろうか。彼女が誰かは知らない違うクラスなのだろうとは思う。…そうだとしても、僕に話し掛けてくるなんて。僕のことを知らないのだろうか。学校中の嫌われ者の僕に話し掛けてくれる人なんて、まずいない。僕と話すということは、それはつまりいじめの標的にもなり得るということ。そんなリスクのあることをするやつは居なかったし、僕としてもそれは御免被りたかった。同じ境遇の人が増えたところで周りに対する僕に対する態度や批判が減るなんて考えられないし想像が出来ない。かと言って今更いじめられっ子同士、傷を舐め合いたくはなかったからだ。だからこの時、僕は立ち上がった。逃げようとした。

しかし彼女はそれを察してか、さり気なく僕の目の前に立っていた。

「君、何してるの?」

後ろで手を組んで、にこり、と微笑む彼女は確かに僕に喋りかけた。答えられなかった。そもそもどう答えていいか分からない。そう言えば学校で同世代と話すのは久しぶりだ。いや、この場合話しかけられたのは、だけど。

「本?ああ、本が好きなの?へぇ、なかなか難しいものを読むんだね。私は字を読むのは苦手なんだ。なんて言っても目が疲れるし、想像力が乏しくて。友達にも良く言われるよ。教科書なんか、読んでたらすぐに寝ちゃうから授業中はいつも大変でさ。そもそも教室自体が窮屈なのにそんな中で長時間座って文字を読書きするって拷問に近いと思わない?私は動いてる方が好きだなぁ、ほら、体育とか、美術とか…音楽も好きなんだ」

何も言わないのに良く喋り、僕の隣に勝手に腰を下ろす。立ち尽くした僕は目線を下ろしたまま未だに言葉が出ないでいた。制服の色からして、同学年らしい彼女はクラスの女子とは何の変わりもない。染められていない髪、適度な長さのスカート丈、この学校の生徒であるには違いない。なのに僕に話しかける特異な子。

「ね、君は何が好き?」

それは授業の話なのか、または別のものなのか。そもそもなんで僕に話し掛けているのか。この状況すら謎で。

「僕を、知らないの…?」

その言葉に答えられず、ただ頭の中の言葉を吐き出す。知らないから、話しかけられるのだろうか。転校生だろうか。

「知ってるよ」

それでも彼女は僕に笑いかけてきた。それは、最初に向けられた笑顔と同じように。何でもない調子で。

「この間、後者裏で苛められてたでしょ?」

それは僕の背中を凍りつかせるものだった。

まさか、そんな。

歌声が頭を過ぎる。彼女が、『彼女』だった?見られていた?

いじめの現場を見られることは、そんなに可笑しくもない。そんなもの、他の生徒だって見たことあるはずだし、それを悔しいとも恥ずかしいとも思うには慣れすぎている。しかし、彼女が『彼女』だとしたら。僕のあの特別な場所は永遠に失われてしまったということだ。

あの心地良い空間を思い出して、僕は、立ち尽くした。

逃げるべきだ。いや、逃げたい。

羞恥よりも何よりも、知られたことが恐ろしく感じて。知っているのに僕に話し掛ける彼女が不気味で仕方ない。なのに、身体が動かない。この子は僕に何をしようというんだ。それすらわからない。脅そうと言うのだろうか。そうじゃなければ、話し掛けてくる意味がわからない。

「…警戒してるの?」

思わず、身体が強ばる。

「大丈夫!」

何がだ、僕を哀れむのか?慰めようとしにきたのか?

訳が分からず、ただ睨みつける僕に、彼女は変わらぬ笑顔を向けてきた。

「君を慰めることも、貶しもしないよ。君が負け犬って呼ばれてるのは知ってる。でも君を探してた」

 

「君とね、友達になりに来たんだ!」

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