あしたのうた


「仲良いねえ、渉」

「……今度兄貴にも同じことしてやろうと思う」

「彼女さんいるんだ?」

「……でも会ったことあるから同じこととか無理だよね」


そういうところが仲良いと思うんだけれど。


頭を抱える渉に笑って、もう、と悪戯をしてこようとした渉から逃れる。途端、車内の人の目を意識した渉が、顔を赤く染めて俯くから私も恥ずかしくなってしまった。


渉と同じように俯いて、そっと隣を窺う。私を見ていた渉と視線が合って、二人で密やかに笑い声を漏らした。


がたごととうるさい車内で、小さな笑い声なんて響かない。まるで隠れて逢っていた頃みたいだ、と思いながら悪戯のせいで一度解かれた手を繋いだ。


まだ、渉が思い出していない頃の過去。素直に逢えるような関係でなかった頃に、人目を盗んで逢瀬を重ねて。まだ身分が大事だと思われていたあの頃にそんなことがばれたら引き離されることは重々承知していたけれど、それでも逢わない選択肢なんて私と彼の間にはなく。


結局父上に露見して引き裂かれた私たちは、その後逢えることはなかった。


けれど、あとの時代になって、彼の、私の生きていた軌跡を見つけて。当時の私が知ることのできなかったうたを、長い年月を越えて受け取って。


────今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな


────今となっては、あなたへの想いをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてにではなく言う方法があってほしいものだ


きっとそれは、彼なりの、世間の目を意識した彼女へのうた。決して楽しいものでも、交わした約束を守るものでもなかったけれど、その言の葉の真意が別にあることくらい、かつては彼女だった私にとって読み取ることは造作もなかった。


あの、数年しかなかった、彼と逢うことのできた期間。思い返せば彼と逢えなくなってからの方がきっと長くて、それでも、私は、必死に約束を守ろうと、頑張っていたのだけれど。


「紬?」


黙り込んだ私の顔を、渉が覗き込む。今笑っても笑えていないと叱られるのは分かっていたから、何も言わずにその胸に顔を押し付けた。


私たちの歩いてきた道の中で大きい出来事だけを抜き出せば、幸せだったことより不幸だったことを数えた方が多い。それでも小さな幸せを寄せ集めて、そんなことないと打ち消して。だがそれでもごまかしきれなくなるときがあることも事実で、それが今だということくらいはちゃんと分かっている。


好きだよ、と落とすと、俺もだよ、と当たり前のように返ってくる言葉。まだ知らない過去の話をすることはできないと思って、なるべく早く彼が思い出しますように、と。


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