小さな恋、集めました 【オフィス編・1ページの短編集】
「上司じゃなく一人の男として見てくれないか」
「野木ちゃん、遅くまでお疲れさま」
 エレベーターホールで下ボタンを押したとき、背後から足音とともに低い声が聞こえてきた。
 振り返った私の前に、残業を三時間こなしたあととは思えないほど、爽やかな笑顔の大矢主任が立っている。
「お疲れさまです」
 私は疲れた顔でどうにか笑みを作って軽く会釈をした。
 大矢主任は企画した商品が次々ヒットするだけじゃなく、その甘い顔立ちと優しい笑顔のせいもあって、我が社の女性社員の憧れの的だ。でも、三週間前まで彼氏がいた私にとっては、恋愛対象外だったけど。
 すぐにエレベーターのドアが開き、二人で乗り込んで一階で降りた。オフィスビルの自動ドアから出ると、いつの間に降り出したのか、夜のオフィス街が雨に煙っている。
「天気予報通りだな」
 主任の言葉に私は小さくため息をついた。
 この三週間、ニュースを見たくなかったから、テレビでもスマホでも天気予報すら見ていなかった。
「野木ちゃんは傘、持ってないだろ」
 どうしてわかるんですか、という意味を込めて右隣を見上げると、主任が小さく微笑んだ。
「野木ちゃんのことはよく見てるから」
「あ、すみません」
 大矢主任は私の直属の上司だ。部下の監督や指導をするのが仕事だから、部下を注意して見るのも当然だろう。
「どうして謝るのかな?」
「あ……」
 私は唇を引き結んだ。
 この三週間、手を抜いたつもりはなかったけれど、やっぱり失恋のショックが仕事に出てしまってたんだろうか。
 私は言い訳をするようにつぶやく。
「大学時代から三年付き合ってた彼氏がいたんですけど……三週間前に振られまして」
 肩を落とす私の横で、主任は黙ったままビジネスバッグから折りたたみ傘を取り出した。
「彼、インディーズのバンドのボーカルで、路上ライブとかよくやってたんですよ。それがメジャーデビューが決まったとたん、別れてくれって……。新しいマネージャーがすごく美人で仕事のできる女性らしくて……公私ともに彼を指導してるとか」
 私は力なく笑った。隣で主任が傘を開く。
「この三週間、野木ちゃんに元気がないのは気づいてた」
 主任が右手で傘を持って左側にいる私に差し掛けてくれたので、私はおずおずと傘に入った。二人で雨の中に歩き出す。男物とはいえ折りたたみ傘だ。濡れないようにしようと思えば主任の腕に肩が触れてしまう。
 それはあまりに申し訳ない。
 主任から離れたら、ジャケットの左肩がしとしとと濡れ始めた。
「そんなに離れて歩くと濡れるぞ」
 私の肩に主任の左手が回されて、ぐいっと引き寄せられた。すっぽりと主任の傘の下に入り、右肩が主任の胸に触れる。ドギマギしながら視線を右側に向けたら、主任のスーツの右肩が雨に濡れて黒く染まっていた。
「で、でも、主任が濡れちゃいます」
「いいんだ。野木ちゃんを守れるなら」
「主任?」
 主任が足を止め、つられて私も立ち止まった。主任が私に真顔を向ける。
「俺がどうしていつもキミを気にかけているかわかる?」
「それは……私が部下だから……ですよね?」
 うかがうように見上げたら、主任が淡い笑みを浮かべた。
「最初は野木ちゃんのことを純粋に部下として見ていた。でも、残業中にふとキミの笑顔を見て、癒やされるなって思ってから、一人の女性として目が離せなくなった」
「主任……」
 その言葉は嬉しいけれど、でも、私は……。
「野木ちゃんはまだ前の彼氏が忘れられないかもしれない。でも、俺はキミが雨風に打たれるのを黙って見ていたくない。またキミを心から笑わせたい」
 主任の傘を持った右手がふわりと私を抱いた。
「しゅ、にん……」
 私を包み込んでくれる温かくて大きな胸。心にしみいるような優しく低い声。
 ふっと肩の力が抜ける。
「キミを泣かせたりしない。ずっとそばにいてあげる。だから、俺のことを上司じゃなく一人の男として見てくれないか」
 耳元で主任の声がして、胸がトクンと小さく音を立てた。それはトクトクとテンポを速め、冷え切っていた心が少しずつ温もりを取り戻し始める。
 どうしよう。
 なにも言えないでいると、主任が右腕を解き、促すように歩き始めた。
「キミが入社してから二年待ったんだ。まだ待てるよ。だから、急がなくていいから」
 そう言いながらも、主任の左手は、俺がここにいるから、というように私の肩をギュッと抱いてくれている。
 どうしよう。
 並んでゆっくりと駅に向かいながらも、私は自分がもう主任を一人の男性として意識し始めていることに気づいていた。

【了】
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