アボカドとホッカイロ
アボカドとホッカイロ
「えー、そんなの絶対、旦那さんへの欲求不満が原因だよ!」

 と、英子が本気の心配二十パーセント、人の不幸は蜜の味っていわんばかりの好奇心八十パーセントが混ざり合った笑みを浮かべたとき、私はこんなデリケートな話を独身の英子になんか話したのが間違いだったことに気付いて、大きなハリセンで自分の後頭部をはたきたいという衝動に駆られた。

 それにしても会社のお昼休憩の時間に、たまたまそこにいた英子に、無意識に『彼』の話をしてしまうだなんて。私はそれほど悩んでいたんだろうか。

「最近どうなの? もしかして美咲、旦那さんとうまくいってない? それとも、夜の方の相性が…」

「そんなこと聞かないでよ!」

 私は悲鳴のように小さく叫んだ。

「姑じゃないんだから」

「え、やっぱり姑ってそんなこと聞いてくるの? 飯塚家の跡取りを生まなきゃ許しませんよ、とか? やだあ、最低」

「いや、そうじゃないけど…」

 英子の好奇心に油を注ぎそうになって、私は慌てて首を振る。

 たしかに、私の義母は突っ込んだことは聞かない。けれど、早く孫が欲しい、という空気は遠慮なく出してくるから、私もプレッシャーに感じるところはあって、あとそのほかにもいろいろと…。

 私の頭に義母のさまざまな言動が一斉に去来して、けれど私はその思考を気合いで吹き飛ばすと、ここは一応義母の顔を立てておく。

「うちの義母はできた人なので」

「なあんだ」

 つまんない、と口には出さないまでも、この上さらにどろどろした嫁姑問題を期待していたらしい英子は、やっと不服そうに口をつぐむ。

「それに旦那ともうまくいってるし。全然、不満なんてこれっぽっちもないんだから」

「…ホントに?」

 おいしい魚を食べ損ねたネコのように、英子が恨みがましい目で私を見上げる。

「本当に」

 私はそう言い切って、同時に自分の気持ちも確かめる。…うん、本当に旦那との結婚生活に不満なんてない。

 そりゃあ、些細なことで言ったら――ほんっとに些細なことでいいならね――あるけれど、そんなの本当にどうでもいいことだ。

 例えば箪笥のひきだしをきちっと最後まで戻さない、とか、読みかけの本をそこらへんに放ってある、とか。

 確かに気になるけど、不満ってほどのことじゃない。ましてや、それが原因で旦那を捨てて、夢の中で私のことを好きだと言ってくれる、初恋の人を追いかけるなんてことは絶対――。

 そう、私をこんなに悩ませているのは、夢の中の人なのだ。

 名前は、雨宮慶介といって、十ウン年も昔の小学校時代に、私が初めて恋をした人。付き合うとか、付き合わないとか、そんなこと考えたこともなかった時代の、初々しい純な頃の。

 その慶介くんが、どうしてかこの頃私の夢に出て来るようになった。昨日の夜でもう五回目で、二晩連続で夢に見たこともある。

 まあ、だけどそれだけなら、私もどうして彼の夢を見るのかという疑問はさておき、懐かしいな、と思うくらいで済みそうなものだ。けれど、私が悩んでいるのはここから先だった。

 毎夜夢に現れる初恋の彼・慶介くんは、なぜか私に手を差し伸べ、愛の告白をしてくるのである。しかも、私も私で、なぜかその夢の中では結婚していることをすっかりと忘れており、その慶介くんの告白がとっても嬉しくてどきどきしてしまうのである。

 そして、私も好きだったの――と差し出された慶介くんの手を握ろうとして、そこで私ははたと我に返る。何か忘れているような、私には誰か大事な人がいたような、そんな気がして私は落ちつかなくなる。

 慶介くんについていきたい。でも、この手を握っていいんだっけ? ああ、でも早く答えないと、慶介くんは行ってしまう、だけど私、何かを忘れてる気が――。

 そんな自問自答をしているうちに、私はだんだん夢から覚めて、目を開くと隣では何も知らない呑気な夫が寝息を立てている、という具合なのであった。

「でも、その慶介くんだっけ? 旦那に不満がないなら、何でそんな昔の恋人の夢ばっかり見るのよ」

「恋人じゃないわよ」

「似たようなもんでしょ。だって、好きだったんでしょ」

「…うん」

 判決を下す裁判長のような英子に、私は罪人みたいにうなだれた。

 私たちの勤める小さな出版社の屋上から眺める空は、これから来る夏を予感させるように濃く、青い。夏服なのに厚い生地の会社の制服はくすんだ色をしていて、それは私の青春が色あせた過去になってしまったことを教えてくれているようだった。

「ほらね」

 別フロアで働く英子の制服は、清々しいほど綺麗な水色だ。それはきっと英子がまだ独身だからだ、と私は勝手に思う。既婚である私が英子の制服を着ても、きっと同じ水色でも、くすんでしまうに違いない。

「それで、慶介くんに会いたいと思ってる?」

「それはないよ。だって、今さら小学校の頃の相手なんて…」

「でも、夢で見たってことは、美咲が潜在意識で慶介くんに会って好きだよって言われたいって願望だと思うけどな」

「でも本当に卒業してから会ったこともないし、今どこにいて何してるのかも知らないんだよ? それなのに、何でなんだろう…」

 私は悩ましく頭を抱える。英子はそんな私を見下すように、ははあ、といたずらっぽく手を腰に当て、楽しそうに形のいいくちびるを左右にきゅっと引いた。

「これは、浮気ね」

「え?」

 夫のある身からしてみれば、とんでもない爆弾発言を落とされて、私は驚いて目を見張る。

「浮気じゃないよ、だってこれは夢…」

「まあ、まあ」

 英子はにやにやしながら私をなだめた。

「浮気の基準ってやつは、たしかに人それぞれではあるわよ。二人っきりで会ったらダメだとか、手をつないだらダメとか。まあ、踏み越えちゃいけない最後のラインっていうのは、やっぱりセックスかなあ?」

「だから、私は慶介くんと会ってもないんだから…」

 赤裸々な言葉に若干たじろぎながらも、私は抵抗を試みる。しかし、英子はにやにや笑いを浮かべたまま、私を制した。

「まあ、話は最後まで聞きなさいよ。でも、セックスしても浮気じゃないって人もいる。そういう人たちは、体の関係はあっても、心が奪われなきゃいいって言うのよ。つまり、心がセックスの先の一線ってわけ。だからそう考えると――」

 英子裁判長は、前例のない冷酷な判決を、明るく私に下した。

「美咲は愛を誓いあった夫がありながら、毎晩夢に見るほど慶介くんに心が奪われているのであり、これは浮気も浮気、間違いなく、あなたは今浮気をしているのであります」
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