アボカドとホッカイロ
 浮気じゃない、浮気じゃない、これは浮気じゃないったら。

 英子に有罪判決を下されてから、私の心はその「浮気」という二文字を否定するのに必死になって、仕事なんか上の空だった。

 それでも何とか今度の企画会議に必要な資料をまとめて、急いで晩ご飯の材料を買って家へ帰る。すると珍しいことにアパートの明かりはもう点いていて、いつもは遅い夫の帰りを知らせていた。

 こんなときに限って。

 別に昨日と今日で、表に見える事実は何にも変わっていないのだけれど、私の心臓は必要以上にどっきんどっきんとうるさく鳴って、私は仕方なく、走って帰ってきたかのように装って、息を弾ませながら玄関のドアを開けた。

「おかえり」

 玄関脇の台所で、夫は何やら料理をしながら笑顔で私を迎えてくれた。

「ただいま、早かった、ね…」

「うん、久しぶりに。だから、美咲が帰ってくるまでにご飯用意しようと思ってたんだけど、まだ全然できてないや」

「ううん、ありがとう…」

 おっとりとそんなことを言う夫の顔を直視できず、私はなぜか罪悪感でいっぱいになりながら、顔に変な笑みを浮かべた。

 だから、浮気なんかしてないんだってば。

 自分に言い聞かせるけれど、あんまり効果はない。

「どうしたの? なんか、あった?」

 夫が不思議そうに私の顔を覗き込む。お饅頭にくりっとした目鼻がついたような柔和な顔が、目の前に現れる。

 決してイケメンじゃないけれど、穏やかで優しくて、私を大好きだって言ってくれる人。好きな仕事をする私を尊重してくれて、家事だって何でも手伝ってくれるし、私が遅いときは料理まで作ってくれるし、それに何より、結婚式でみんなに祝福されながら、共に一生の愛を誓った人。

「ううん、何でもないの」

 私はドタバタと靴を脱いで荷物を置くと、洗面所に走り、いつもよりも多めにメイク落としを手のひらに乗せると、勢いよく顔じゅうに塗りつけた。

「あ、アボカド買ってきてくれたんだ。やった、サラダにしようっと」

 私が放り出した買い物袋を覗いて、夫が嬉しそうに笑う。アボカドは夫の好物なのだ。

「駅前のスーパーでしょ? 僕も帰ってくる前のぞいたけど、安くなってたっけ?」

「え? 何で?」

 私は素で聞き返す。夫は笑いながら答えた。

「だってこの前一緒に買い物行ったとき、僕がアボカド買おうとしたら、美咲が百三十八円は高いから、九十八円のときじゃないともったいないって言って買ってくれなかったじゃん」

「…そうだったっけ?」

 正直、アボカドが幾らしたかなんて全然覚えていなかった。無意識で夫の好物を買ってきただなんて、私ったらやっぱり夫のことを愛してるんじゃない。私は免罪符を得たような気分になって、ほっと胸をなでおろす。

『気をつけて下さい、急に夫が優しくなって奥さんの好物を買ってきたら、それは浮気の証拠ですよ』

 しかし、そのとき絶妙のタイミングで、私の脳みその隅っこの方から、日曜のワイドショーで聞いたらしい、誰かのセリフが飛び出した。

 ええ、それって、今日アボカドを買ってきた私にも当てはまるってこと? 

 ほっとしたのもつかの間、私は自分のした行動に恐ろしいほどの戦慄を覚えて呆然とする。私、アボカドなんかで夫の歓心を買おうとしてたってわけ?

 しかし、夫はそんな私の様子には気付かずに、ぽんと手を打った。

「わかった。もしかして美咲、何か欲しいものでもあるんじゃない? それで、アボカドを布石にして頼もうと思ったんでしょ? まったく、策士だなあ」

「ううん、本当、そんなんじゃなくて」

「本当?」

 ばしゃばしゃとメイクを流す私の背中で、のんびりと夫が笑う。勘の鋭い人なら――誰だか分からないけれど、ワイドショーのあのセリフを言った人なら絶対に――私の様子が変なことくらいすぐに気付くだろう。

 けれど、夫は何にも気付いた様子もなく、のほほんと笑っている。そう、もしかしたら、私が本当に浮気したって、何にも――。

 だから、浮気なんてしてないんだってば!

 私は今度はごしごしと乱暴にタオルで顔を拭った。メイクを落とした私の目は一回り小さく、眉毛だってなくなってしまう。

 こんな顔、今さら夫以外の人になんか見せられないし、見せるつもりも毛頭ない。私はそのままの勢いでお風呂場に踏み込むと、浴槽の栓を力任せに引き抜いた。

 水はぐるぐると回りながら抜けていく。私の頭の中にある余計なものも、こんな風に簡単に抜けたらいいのに、と私はやり場のない怒りにまかせて洗剤を辺りにぶちまけた。

 夫に不満なんてもちろんない。何より、私は夫がいないと生きていけないと思っているくらい、夫のことが大好きだ。だから、夫を傷つけることなんて死んでもしたくないし、夫を守るためなら大抵のことはする覚悟だ。

 それなのに、どうして今さら慶介くんが夢の中に出て来るんだろう。

 私は柄付きブラシでゴシゴシと風呂中をこすりまくった。

 大体、小学生の頃の初恋なんて、たかが知れたものだ。夫と一緒にいるときに感じる大人の深い愛情なんかと違って、表面的で、不安定で、相手を思いやらない自分勝手さで溢れてる。

 そんな幼い恋に手を引かれたって、誰も幸せにならないことなんて、大人になった私には分かりすぎるほど分かり切ったことなのだ。それに、私が知っているのは小学生のときの慶介くんなのだ。大人になった今ではどうなってるか――。

 ――それだ!

 私は大急ぎでそこら中の泡を流すと、転がるように風呂場を飛び出し、濡れた手をシャツで拭いながらパソコンを開いた。

「あと十分くらいでご飯が炊けるから、そしたら飯にしよう」

 夫が言う。私は普通に聞こえるように返事をしながら、ブラウザを開いて、検索欄に慶介くんのフルネームを打ち込んだ。

 どきどきするような一瞬の空白。私は初めてフェイスブックやツイッターの存在に感謝した。現代の便利なツールのおかげで、運が良ければ今の慶介くんが何をしているのか、どんな大人になっているのか、すぐに分かるはずだった。もっと運が良ければ、年を取った彼の顔写真まで見れるかもしれない。

 禿げて太ったオタクであれ!

 私は失礼にもほどがある願いを口の中でつぶやいた。慶介くんには悪いが、もしもそんな写真をネット上で見つけたなら、私の潜在意識とやらも慶介くんを諦め、私は平穏無事な暮らしを取り戻せる、そう思ったのだ。

 パソコンのアクセスランプがパパパ、と点滅し、検索結果が画面いっぱいに表示される。同姓同名の可能性もある。私はそう自分に言い聞かせながら、その中の一つのブログを、息を止めてクリックした。

 また一瞬で画面は切り替わり、シンプルなレイアウトのブログが表示される。私はそうっとカーソルをスクロールすると、プロフィールを画面の真ん中に引っ張ってきた。

 そこには、雨宮慶介という名前と、果たしてそれから――私と同じ生まれ年、出身地が並んでいた。そして、見覚えのある、顔写真。

 慶介くんだ。

 眼鏡こそかけてはいたが、はにかんだような笑顔も、ほっそりとした顔つきもあの頃のままの慶介くんが、画面の中から私に微笑みかけていた。はっきり言って、カッコイイ。私は無理やりその笑顔から視線をはがすと、ブログの文字に集中した。

 日付が一昨日のブログの記事のタイトルは、『授業の様子』。まさか慶介くん、まだ学生やってるの? そう思って少しほっとしたのは早計だった。

 『日本近代史は来年からもう少し昭和初期にテーマを求め――』そしてコメント欄には『雨宮先生』の文字。どうやら慶介くんはどこかの大学で講師として働いているらしい。私がそう理解するまでには、さほど時間はいらなかった。

「美咲、ご飯盛ってくれる?」

 炊飯器の炊きあがりを知らせる、ピロピロという可愛い電子音と、夫の優しげな声が、ショックでくらくらする私に遠く響いた。
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