どうしてほしいの、この僕に
 屋上から部署へ戻った私は、離席していたことを上司に謝罪した。課長も部長もやむを得ない事情とわかっているから「ご苦労様でした」とねぎらってくれる。
 しかし向かいの席の友広くんだけは、私の存在を完全に無視し、仏頂面でパソコンに向かっていた。
 その姿を目にした瞬間、はしゃいだ気分は浮力を失い急降下する。優輝がいたひとときが遠い日に見た夢のように思えて胸が痛んだ。

 予想もしなかったできごとのせいで、私はかつてないほどの疲労を覚えていた。
 普段はろくに挨拶を返してくれない女性社員までわざわざ私の席へ足を運び、優輝のことを質問してくる。朝のジョギングを勧められたくだりは何度繰り返しただろう。もともと愛想のない私だけど、いい加減うんざりして机の上にバンと手をつき「少し放っておいてください」と言いたくなった。
 しかし契約社員の身分でそんなえらそうなことも言えず、かといって適当にあしらうこともできず、結局相手を不愉快にさせないよう気を遣いながら優輝の話をした。
 当たり障りのない会話というのは案外疲れる。しかもパソコンの向こうで友広くんが聞き耳を立てていると思えば神経もすり減るわけで、内心ではひいひい言っていた。
 無表情の仮面はこういうとき強固な守りになるものだけど、女性の陰口をあなどってはいけない。
 ただでさえ友広くんの向かい席ということで女性社員のいらぬ反感を買っているのに、優輝が案内役に私を指名したことで、私の社内の立場は絶体絶命の苦境へと追いやられてしまったのだ。
「お疲れさまでした」
 終業を告げるチャイムと同時に私は席を立ち、逃げるように職場を去った。
 ほとんど駆け足で電車に乗り込み、買い物もせずに姉名義のマンションへ帰る。とにかくひとりになりたかったのだ。
 エレベーターを降りて玄関のドアを開ける。その瞬間、暗い玄関が予告なしに明かるくなり、驚いた私は思わず「ひっ」と声を上げた。
「おかえり」
 優輝が玄関の電灯スイッチに指をかけたまま、じっと私を見ていた。壁にもたれているそのポーズが憎いほどかっこよくて、つい見とれてしまう。
「ただいま」
「靴、脱がないの?」
 声が硬い。胸の内がひやりとするけど、とりあえず靴を脱ぐ。
 廊下へ上がると優輝がいきなり私の腕をつかんだ。
「あの男、誰?」
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