どうしてほしいの、この僕に
 くすぐったいような感覚が次第にとろけるような甘美な刺激にすり替わる。私は通勤かばんを投げ出し、優輝の腕にすがりついた。そうでもしないと、立っていられなくなりそうだった。
 最後に下唇をじれったいほど丁寧になぞられる。
 大きく深呼吸してから、私はおそるおそる目を開けた。
 すると優輝は目を細めながら首を傾け、私の耳元で囁いた。
「聞こえた?」
「え?」
「今、言ったこと」
 私は優輝から顔を引きはがすように勢いよく後方へ下がった。同時にガンと後頭部に鈍い痛みが走り、背中が壁にぶつかる。
「あの、それって……」
「もう1回言う?」
「い、いや、でも、その、今の、って?」
「遠慮するなよ」
 彼の顔がまた急接近したそのとき、足元からくぐもった電子音が聞こえてきた。
「電話が……」
「出れば?」
 ようやく腕は解放されたけど、壁際に追い詰められた私は、壁と優輝の間にしゃがんでかばんから携帯電話を取り出した。画面には姉の名前が表示されている。
「お姉ちゃんだ」
 私はしゃがんだまま携帯電話をさりげなく優輝にも見える角度に傾けた。彼は何も言わず私を見下ろしている。
 とりあえず電話に出た。
『未莉!? 大ニュースよ!』
 つながった途端、姉の大声が耳に飛び込んでくる。
「どうしたの?」
『仕事が決まりそうなのよ!』
「へぇ。よかったね」
『未莉、あなたの仕事よ。コマーシャルの仕事』
「……は?」
 私の脳は一瞬活動を停止した。私の仕事。コマーシャル。どういうことだ。
『そこに守岡くんもいるんでしょ? ちょっと替わってよ』
 優輝は茫然としている私から携帯電話を取り上げ「お久しぶりです」と無愛想に言った。
『あら、もしかしてお取込み中だったのかしら』
 姉のにやけた顔が思い浮かぶ。慌てて携帯電話を奪い返そうとしたが、優輝はわざと持ち替えて携帯を私から遠ざけた。
「現在、職務質問中です」
『それはお楽しみのところを邪魔してごめんなさい。でも仕事の話だから許してね』
「コマーシャルの仕事は西永さん絡みですか」
 久しぶりに聞く名前に私は目を見張った。優輝はそんな私を険しい表情で眺めている。
 姉の返答が気になったので、不本意ながら聞き耳を立てて優輝のそばへにじり寄る。
『そうよ。よくわかったわね』
「請けるつもりですか」
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