クールな御曹司と愛され政略結婚
言葉
「いないんだ」



打ち合わせから会社に帰ると、まだ日も落ちきっていないのに灯は帰宅した後で、私も慌てて帰ってきた。

灯は書斎で仕事をしていたらしく、私がのぞいたときには、ぐったりと背もたれに頭を預けていた。

服から煙草の強いにおいがする。

部屋は禁煙にしているから、どこかで吸ってきたんだろう。



「ディレクターが?」

「そう」



返事をする気力もないのを見てとり、私はキッチンへ引き返した。

ふたりぶんのコーヒーをいれて書斎へ戻る。

香ばしい香りをかいだ灯の目に、ぱっと生気が戻るのを見た。



「サンキュー」

「どういう方針でいく?」

「もちろん、現状の方向性を維持」



やっぱり。

コンペに勝つことを考えればそれが一番確実で、また一番難しい。

すでにできあがっているものに似た作品をお願いします、なんてオファーに、喜んで首を縦に振るディレクターなんていない。

だけどここで方向性を変えたら、じゃあ前回の提案はベストじゃなかったんですか、とクライアントに突っ返されて終わりだ。



「手伝うよ、なにか振って」

「お前も今日、たいへんだっただろ、指示も入れずに任せきりで悪かった」

「こっちが軌道に乗るまでは、ほかの心配はしないでいいから。信じて」



安心させたくて肩を叩くと、灯が椅子の上から私をじっと見上げ、私の手に、自分の手を重ねた。

きゅっと握って、自分を励ますように「よし」とうなずく。
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