黒胡椒もお砂糖も


 改札に入る前、青い10月の空を見上げた。風が通っていく。私は小さく笑う。

 ・・・ああ、嬉しい。この瞬間の為に、契約を頂く、その瞬間の為に毎日頑張ってると思えるのだ。

 忘れたいことも沢山ある日常で、仕事でうまくいった瞬間、それがどれだけ栄養になることだろう。

 そう、今の、32歳の私をこのハードでビターな日常から一時的ではあるにせよ救ってくれるのは――――――チョコレート一欠けらと、怪我も持病もない健康なお客様から頂く契約。

 ただし、チョコレートはいつでも手に入るが契約は滅多に手に入らない。

 そして必要ないのは、過度のアルコールと・・・・・・男。

 一瞬、1年半前に別れた元夫が頭の中を横切り、ホームから落ちそうになってしまった。

「!!」

 慌てて身を引く。それと同時くらいに電車がホームへ滑り込んできた。鼻先スレスレだ。

 ・・・あっぶねー!!

 冷や汗が出る。

 心臓をドキドキいわせながら、何でもなかったみたいに電車に乗り込んだ。

 アイツを思い出して電車に飛び込むなんて、悪夢以外の何者でもないじゃないの!しっかりしなさい、私!

 ハンカチでそっと額の冷や汗を拭う。駄目駄目、会社に戻るまで死ねないんだってば・・・。

 ようやく落ち着いた鼓動を感じ取って、私はつり革に掴まって体を支えた。

 こっそりとため息をつく。

 先ほどまであった高揚感が、ホームへの転落未遂で一気に冷めてしまった。あーあ。

 昼下がりの各駅停車の電車は空いてはいたけれど、どこに知り合いの目があるか判らないのだ。気は抜けない。



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