仮病を使おう!
明日という繰り返し
「こういうのって、現実逃避なのかなあ」
「何で」
 私を振り返って、少し歩みを遅くして私に並びながら長之助君は言った。
「だって」
「やってみるまで思ってなかったか?逃げることの方が勇気いるって」
 確かにそうだ。私はずっと一方向しか見ていなかった。そこからはずれてしまうのが怖かった。置いていかれるのが、心底。
「だから仮病を使えって言っただろ」
「あー、けびょうってそのことだったんだ。毛の病だと思って意味がわからなかった」
「はあ?十円ハゲのことじゃねーぞ」
 気付くと、蒼天はだんだんと朱色に染まり始めていた。音もなく、高い空を羊雲が流れてゆく。そこかしこから虫の声が聞こえだす。風が冷たくなってきた。
「寄っていいか」
 長之助君が、商店街の入り口を指差した。
「本屋さん?」
 長之助君のあとに続いて店の中に入ると、人が一人、やっと通れるくらいぎゅうぎゅうに置かれた棚の列。その中には、洋書ばかりが詰め込まれていた。古い本特有の、チョコレートみたいな香ばしい匂いが鼻をついた。店の奥には、眼鏡をかけた白髪のおじいちゃんが置物みたいに座っていた。
「何か買うの?」
 手にした一冊の本に目線を落とすと、長之助君は静かにそれを開いた。
「・・・きれい」
 その本は、空ばかりを撮った写真集だった。早朝の張り詰めたような空、カモメが舞い飛 ぶ真昼の空、細いレンズ雲が浮かぶ秋の空、入道雲が一面を覆っている夏の空、水平線までオレンジに染まった夕暮れの空。いくつもの空がそこにあった。見つめていると、まるでそこに立っているような気分になる、リアルな空たち。
「いいだろ、これ。近くに来ると必ずここに寄って見ていくんだ。買いたいけど、高すぎて買えない」
 値段を見ると、私の二ヶ月分のバイト代くらいだった。長之助君は自分のもののように大切そうに本を閉じ、人が見えないような隅っこにその本を隠した。
「いつか、買うことができたら、見せて」
 長之助君は、嬉しそうに目を細めてうなずいた。外に出ると、夕空は鮮やかな紅に染まっていた。真上をトンボの大群が通り過ぎていく。空のてっぺんがもう紺に染まり始めていた。
「もう、夕日が沈むね」
 長之助君は黙ってそれらを見つめていた。私も同じ空を見つめた。このままずっと見つめていたいとさえ、思った。
「お前は気付かないんだな」
「何を?」
 バス停へ戻る道の途中で、長之助君は突然言った。
「高校に入学してからずっと、同じバスを使っていたこと。だから、俺はお前を初対面だとは思ってない」
「え?あー・・・そっかそっか、そうなるよね。時間はともかく、あのバス停で乗り換えないと雪代高校まで行けないもんね」
「やっぱり気付いていなかったのか」
 つぶやくように言った。何だか寂しそうだった。だから私も寂しくなった。 長之助君は私の存在に気付いていてくれたのに、私はバスの中で一体毎日何を見てきたんだろう。半分寝ているみたいな頭で、きっと何も見ていなかった。何も見えていなかった。
 二人でバスに乗って、来た時と同じ一番後ろに座った。バスの中は私たちしかいなくて、もう、これから帰るのだということを印象付けられた。窓の外はもう、夜のカーテンが閉まり始めていた。
「一番星」
 私が指差した星を見て、そして二つの視線が一つに重なる。
「長之助君、もう一回聞くよ?どうして時間を割いて、私をここにつれてきてくれたの?」
「時間を割いているつもりはない。俺がお前とここに来たいと思った。ただそれだけだ」
「話したこともない私を?」
「時間は逃げないから」
「長之助君は、明日が不安になることはないの?」
「あるよ、そりゃあ。でも、そしたら寝る。寝て明日にすぐ行く。不安になってる時間って、一番無駄って思うから」
「何型?」
「B」
「やっぱり。あ、玉前だよ、長之助君」
 私が肩を揺すっても、長之助君は降りようとはしなかった。ただ、うるせえ、ってつぶやいただけで。
「うわ、長之助君見て見て、おっきなお月様!今日って十五夜だったんだねえ」
 徐々に暗くなっていく空と、徐々に光を増す星々。そして、金色に満ちる月。
 長之助君は指でわっかを作って、そこから月を見て、
「俺のもん、って感じだろ」
 って言いながら笑った。うん、って私も笑った。その時、急に、本当に急に切なさがこみあげてきて、泣きそうになって、眉をぎゅって寄せた。それなのに、バスは乗ってきた場所と同じところで、同じ音をさせて、止まってしまった。
「降りるぞ」
 バスから降りると、もう外は夜だった。家々の窓には明るい照明がつき、夕ご飯の匂いや、お風呂の音が漏れてくる。
「冷えてきたね」
 長之助君は何も言わない。それが冷たさじゃないってこと、もう知ってる。今日という時間が、急速に私たちを近づけたのに、また、急速に離してしまう。私たちは、波間に揺れる貝の欠片だ。
 歩道橋の真ん中で、長之助君は立ち止まった。つられて私も立ち止まった。橋の下を、ヘッドランプとテールランプが過ぎ去っていくのを、少しの間見つめた。寂しかった。ただ、寂しかった。
「お前は知らなかったかもしれないけど」
 ずっと黙っていた長之助君が、急に口を開いた。私はカーランプの天の川を見つめたままの長之助君を見た。
「俺は毎朝、お前を見てた」
「・・・それって、もしかして」
 長之助君は黙ってうなずいた。
「ストーカー?」
 あたしが言うと、長之助君はがくっと欄干に手をついたままひざを折った。
「ふざっ、ふざけるのもいい加減にしろっ」
 長之助君は真っ赤な顔をして、両手をふるわせてぷるぷる震えている。
「何で怒るのー?私は嬉しいんだよ?長之助君みたいなかっこいい人が私のストーカーになってくれて」
「お前は絶対何か間違ってるっ」
 そう言って長之助君は額を押さえてうなった。
 ピピピピピピッ
「あ、誰だろう、バイト先からだ。出るね。はい、もしもし」
「店長です。急だけど、今からバイト入れない?」
 ちらっと長之助君を見ると、けびょう、と口を動かした。
「すみません、今日体調悪くて学校も休んだので、ちょっと無理です」
「そう・・・そうね。あなた最近ずっと元気なかったものね。ゆっくり休んでね、シモツケさん」
「あ、はい」
 プチ。
「やっと店長が私の苗字覚えてくれた!」
「どうでもいいじゃんそんなこと」
「聞きなれないんだもん、シモノって」
「俺にはシモツケの方がずっと聞きなれないぞ」
「あ、今度バイト先に来てよ。こっそりサービスしてあげるよ。えっと、あそこに市民体育館見えるじゃん?あの斜め前の建物」
「何屋?」
「ファミレスだよ。ちょっと変わった」
「ちょっと変わった?」
「ちょっとだけだから大丈夫。長之助君はバイトしてるの?」
「地元の図書館」
「遊びに行き甲斐のないバイト先だね」
「いいよ、来なくて」
「えー、そう言われると行きたくなる」
「お前なあ、いい加減気付けよ」
 長之助君が怒ったようにそっぽを向いた。その後ろに、屋根の合間から満月が昇っていくのが見えた。
「俺は、お前がっ、」
 ピピピピピピッ
「あ、家からだ、ちょっと待ってね。うん、今日は家で食べる、うん、お腹すいたからいっぱい食べる。桃太郎は?あ、うううんいいの、わかった。はーい。ごめんごめん、で何?」
「もういいっ」
「何で涙目なのー?」
「うるせー、お前なんかお前なんかっ、好きだっ」
「へ?」
「そんな目で見るなっ」
 何だかわけのわからないうちに、愛の告白をされてしまった、らしい。今度は、それを聞いてしまった私の方がしどろもどろだ。
「わかってる。いいよ、これから俺のことをどんどんザクザク好きになればいい」
「ザクザクって・・・宝探じゃないんだから」
 長之助君はやっと立ち上がって、制服のほこりをはらった。
「でも、嬉しいよ。とっても。ありがとう。びっくりしたけど」
「言わないでおこうと思ってたのに」
「大丈夫、私も多分好きになるから」
 長之助君は、目を見開いてそして凄い速さでそっぽを向いた。照れ屋なんだ。こんなにかっこよくって、もてるんだろうに、私のことなんか好きになっちゃって。ねえ。
「お、潮の匂い」
 長之助君が、くんくんと鼻を鳴らした。私も真似して少し上を向くと、夜風の中に微かに潮の香りを感じることができた。
「また、連れてってね」
「まかせとけ」
 そして私たちは、織姫と彦星みたいに、橋の両端に別れた。でも、次に会えるのは一年後じゃない。
「バイバイ、明日ね」
「おう、明日な」
 満月が、私たちの道を照らしている。どこにいても、きっと同じお月様が、私たちの上にはある。そう思うと、明日という繰り返しが、なんだかとっても楽しみに思えた。
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